源頼朝の乳母:寒河尼系図

 宇都宮氏略図

毛利氏系図  佐竹氏系図  伊達稙宗  足利氏姫  

✤宇都宮国綱:従四位下侍従兼下野守、宇都宮城主、佐竹氏の盟友。
  小田原征伐直前には、鹿沼城、真岡城、壬生城など周辺諸城が全て北条に寝返っており、
  宇都宮城から脱出を余儀なくされるほど追い詰められ、秀吉の出陣を願うのみであった。
  天正18(1590)年の秀吉の小田原征伐に参陣、石田三成の指揮した武蔵・忍城攻撃などに
  参加し、下野18万石の所領を安堵された。
  その後は秀吉に従い、文禄の役にも参陣した。
  慶長2(1597)年、突如秀吉の命により改易され、備前の宇喜田秀家預かりとなった。
  浅野長政の三男長重を養子に迎えようとしたが、弟の芳賀高武が猛反対し、長政がそれを
  恨みに思い、秀吉に讒言したことにより改易されたという。
  秀吉から【朝鮮での戦功次代では再興を許す】との言を受け、慶長の役にも参陣し、
  順天城の戦いで武功を立てたが、秀吉の死により再興は叶わなかった。
  慶長5(1600)年の関ヶ原合戦で東軍に組するのを拒んだため、豊臣政権崩壊後も
  家名の再興は認められなかった。
  諸国を流浪し、慶長12(1607)年に江戸浅草の石浜で失意のうち病死した、享年40。
  息子の義綱は成人後、水戸藩士となった。

須資:通称与一、従五位下左京大夫。那須七党の一。
  天正18(1590)年の小田原の役に遅参し所領を没収され、改めて5000石を与えられた。
  慶長14(1609)年、父の家督5000石を相続し合わせて1.4万石を領し大名となった。
  寛永元年(1624)に隠居したが、慶長19年に子資重が死去し継嗣なく断絶となり、
  名跡5000石が資景に与えられた。

須資:青木利長の二男で、那須資景の養子、下野国烏山藩初代藩主。
  姉は四代将軍の生母宝樹院、兄に増山正利、異父弟に平野長政


氏系図
:藤原秀郷の直系子孫。
小山氏略図 

結城秀康  

✤小山政光:元の名は太田政光、武蔵国の在庁官人太田行政の子。
  平安時代末期の1150年頃、下野国に移住して小山荘に住み小山氏の祖となる。
  下野国の国府周辺に広大な所領を有し、下野最大の武士団を率いていた。
  後室で三男・朝光の母である寒河尼は源頼朝の乳母で、女房として近衛天皇に
  仕えた経歴を持っていた。

✤小山秀綱:通称小四郎、小山氏18代当主、下野国祇園(小山)城主。
  天正3(1575)年、北条氏の攻撃によって居城の祇園城が陥落(下総の古河・関宿
  などの城は既に陥落)、佐竹義重を頼り逃亡。
  ここに400年続いた関東の名門・小山氏は滅亡した。
  その後、北条氏は北条氏照を祇園城城代に任じ秀綱もその一配下となることで
  小山復帰が認められた。
  天正18(1590)年に北条氏は滅亡して、小山氏の旧領は弟の結城晴朝に与えられ、
  秀綱は晴朝に従う事になり、小山氏の再復興も果たせず、息子達に先立たれ
  失意の内病死。
  小山氏の家督は孫の秀恒が継ぎ、後に秀恒の子の小山秀堅が寛文年間に
  水戸藩士として取り立てられ存続し、現在に至っている。

✤白川義親:白河結城氏12代・仙台白河氏初代当主。
  小田原不参により改易となり、所領は没収され、鎌倉以来の白河を離れた。
  その後、伊達政宗に召抱えられ、三代後の宗広の時伊達一門になった。
 



日立市十王町漢方整体院
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愛犬・りく君

Author:愛犬・りく君
茨城県日立市十王町で
漢方整体院を経営してます。

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