源頼朝の乳母:比企尼系図

比企尼:武蔵国比企郡の代官で藤原秀郷の流れを汲む一族である比企掃部允の妻。
  幼児時代からの乳母・比企尼は都から武蔵国比企郡に住み付き、そこから食料を送り、
  治承4(1180)年の秋まで20年間頼朝の生活上の面倒を見てくれた。
比企尼 

清和源氏系図  甲斐源氏系図  桓武平氏系図 

企能:能員の台頭を恐れた北条時政との対立により比企の乱が起こり、一族は滅亡。
  正治元(1199)年1月、頼朝53歳で没; 翌1200年正月、梶原景時一族滅ぶ。
  建仁3(2003)年8月末、頼家の病気は危篤状態となり、頼家の後は一幡が継ぎ、
  日本国総守護と関東28ヶ国の総地頭となり、実朝には関西38ヶ国の総地頭を譲る
  と発表された。これを聞いて納まらないのが比企能員であった。
  9月2日、能員は頼家に北条時政を追討を訴え承諾された。
  正子が障子の影から立ち聞きし時政に知らせる。
  時政は側近中のリーダー大江広元の同意を付け、仏事にことを寄せて能員を呼ぶ。
  留める一族を振り切り時政の屋敷に入ったところ、その場で殺された。
  9月29日、頼家が伊豆修禅寺に下向し、翌年7月18日、23歳で暗殺される。

達泰:安達氏は藤原北家魚名の流れの汲む一族、奥州安達郡の豪族。
  鎌倉幕府の有力御家人、評定衆、御恩奉行。
  貞時の外祖父として幕政を主導する立場になり弘安徳政と呼ばれる幕政改革に
  着手し、新たな法令である【新御式目】を発布した。
  内官領・平頼綱との対立により、霜月騒動で一族滅亡。
  頼綱は霜月騒動の7年後、貞時によって滅ぼされ、安達家の家督は時顕が継いだ。

安徳:御家人層を拡大し、得宗権力と御内人の幕政介入を抑制する。
  得宗(トクソウ)被官である平頼綱らに利害が及ぶものであった。

月騒:弘安8(1285)年11月17日、平頼綱が貞時に 「泰盛の子宗景が
  源頼朝の落胤であると称して源氏に改姓し、謀反起こして将軍になろうとしている」
  と讒言(ザンゲン)。
  安達一族500名余りが自害し、騒動は全国に波及し各地で泰盛派が追撃を受け
  自害に及んだ。
  安達氏の基盤の上野国・武蔵国の御家人の被害が多く、九州では子・盛宗が敗死。
  これだけの人数が一気に討ち死に、自害に追い込まれたのは用意周到な計画の元で
  時間を定めて一斉に襲撃したためと見られる。
  御家人層の政治勢力の消滅す。

:系詳ならず、平資盛の子或い曾孫ともされる。
  鎌倉幕府の執権北条氏(泰時・経時・時頼)の家司で、内管領長崎氏の祖。
平頼綱 

:貞時の乳母父で北条氏得宗家の執事内管領であり、得宗権力を具現する立場。
  霜月騒動後、幕府内外で絶対な権勢を振るうが、不安を抱いた貞時の命で誅殺。
  頼綱滅亡後、一族の長崎光綱が惣領となり、得宗家執事となった。


山内尼:山内首藤俊通の妻で、源頼朝の乳母の一人、摩々局とも呼ぶ。
  中村氏出身と見られており、土肥実平は近い血縁者と見られる。
山内尼 

✤山内首藤氏は藤原秀郷の流れを汲み、代々河内源氏の家人で、首藤資通(助道)
  源為義の乳母父を務めた。

山内首藤経俊:はじめ平家に味方し、斬罪に処せられることになったが、山内尼の悲歎に
  免じて赦され頼朝に臣従した。
  元暦元年(1184年)、伊勢国守護となり、また大内惟義の後を受けて伊賀守護も兼ねた。
  元久元年(1204年)、伊勢・伊賀などで起こった三日平氏の乱で、平氏残党の反乱鎮圧に
  失敗し、守護所から逃亡したために守護を罷免された。
  両国の守護職は経俊が逃亡した後に乱を鎮圧した平賀朝雅に移された。
  その後、朝雅は失脚し、経俊の子の通基に殺害された。
  その後、職の回復を願ったが許されなかった。



日立市十王町漢方整体院
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愛犬・りく君

Author:愛犬・りく君
茨城県日立市十王町で
漢方整体院を経営してます。

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