伊勢平氏系図

伊勢平氏略図   

平 家盛:忠盛の次男、母は正室の宗子(池禅尼)、清盛の異母弟、頼盛は同母弟。
  兄・清盛の地位を脅かす存在だったが、久安5(1149)年鳥羽法皇に御供して熊野に
  赴く途中で病没。享年23。
  平治の乱(1159年)の際、源頼朝の容姿が家盛に似ていたため、池禅尼が助命嘆願した。
  長崎県の五島列島宇久島には家盛が壇ノ浦の戦いの後宇久氏(五島氏)の祖に
  なったとの伝承がある。

平 頼盛
  寿永2(1183)年4月、権大納言に昇進する。
  同年8月、他の平氏一門と供に都を占拠した義仲により解官される。
  解官後、密かに鎌倉の頼朝と連絡を取っていたが、後白河の意向を受けた可能性もある。
  同年11月6日、鎌倉で頼朝に会う。【頼朝は頼盛を如父モテナシ】─愚管抄。
  旧恩だけではなく、後白河や八条院と太いパイプを持つ頼盛の参入に心強さを感じていた。

高階栄子(丹後局):後白河の側室となり、内親王を産み、唐の楊貴妃に例えられた。
  安徳天皇の次を後鳥羽天皇を立てるよう後白河法皇に進言。
  建久7(1196)年、建久7年の政変を起こし関白兼実を失脚させた。
  若年の後鳥羽天皇に代わって源通親と供に朝廷の実権を掌握した。
  通親の死、後鳥羽天皇が親政を開始すると威信が急速に失墜した。

平 清盛
①治承4(1180)年2月21日、当時3歳の安徳天皇に譲位した高倉上皇は上皇となって
  最初の社参を厳島神社に行うと発表した。
  これまでの例では最初の社参は石清水八幡宮か賀茂社か春日社か日吉社であった。
  はるばる厳島を選んだ上皇の心底には清盛の心をやわらげ、白河法皇を幽閉から
  救い出そうという悲願が込められていた。
  平氏が諸大寺の反対を押し切って高倉上皇の厳島参詣を強行したことは、これまで
  お互い攻めあってばかりいた延暦寺、園城寺、興福寺などが連合する機会を与え、
  大衆らが平氏から離反するきっかけをつくった。
  4月9日、高倉上皇が厳島参詣を終えて京都に帰ったが、この日、源頼政は子仲綱らを
  率いて以仁王(モチヒト)の三条高倉御所に参向し、平氏討滅の挙兵を勧めていた。

②治承4(1180)年6月2日、福原への遷都を強行したが、11月26日、天皇・法皇以下
  平氏一門を挙げて京都に帰った。
  5月26日、以仁王、源頼政ら宇治川の合戦に敗れ、頼政・子息仲綱・兼綱以下
  ことごとく討死し、以仁王は行方不明となり、挙兵はわずか10日で終わった。
  8月17日、源頼朝が北条時政の援助を得て伊豆で挙兵、石橋山に敗れる。
  9月7日、源義仲が木曽で挙兵、諸国武士の蜂起相次ぐ。
  10月20日、源平両軍が富士川で対陣し、平氏敗走。
  10月26日、延暦寺の大衆が蜂起して、遷都をやめて欲しい、もし聞き入れられねば
  山城・近江両国を占領すべしと奏上した。

平氏西奔
  治承5(1181)年2月、平清盛没する。
  寿永2(1183)年5月、平氏10万の軍、加賀・越中の国境倶加羅峠(クリカラトウゲ)で
  義仲の火牛攻めに逢って惨敗し、義仲は平氏軍を追って京都に迫った。
  同年7月、白河法皇が比叡山に身を隠したので、安徳天皇及び建礼門院・徳子を擁し、
  六波羅に立ち並ぶ平氏一門の邸宅に火を放って一族を挙げて西奔した。
  同年10月、義仲、備中水島の戦いで平氏に敗れる。
  寿永3(1184)年1月、義仲、近江の粟津(アワツ・大津市)で義経に敗れで戦死する。

平氏滅亡
  寿永3(1184)年2月、一の谷の戦い。
  元暦2(1185)年2月、屋島の合戦。
  元暦2(1185)年3月、壇ノ浦の合戦で平氏族滅する。

平 宗盛
  頼政の嫡男・仲綱が密蔵していた名馬を強請し、仲綱と名づけて辱めた。
  白河法皇が示した源頼朝が奏した【源平二氏を並んで召し仕え】を拒絶。

平 重衡  
  治承4(1180)年12月,南都を焼き討ちし、大仏殿などを焼いた。
  寿永3(1184)年2月,一の谷の合戦で生捕りにされ,関東に送られ頼朝と対面した。
  その後,南都の大衆に渡され極悪無道の仏敵として斬られることになった。
  頼朝に対面する前に警固の武士土肥実平に出家の希望を伝え,法然に頼んで
  授戒してもらった。
  最期の願いで阿弥陀如来の像を前にして,念仏を高らかに唱えつつ首を打たれた。

平氏後裔
①薩摩諸島の硫黄島(イオウガシマ)に安徳天皇の後裔と称する天皇─長浜天皇が現れ、
  部落には壇ノ浦から逃れ給う安徳天皇を守って来た武士の子孫の家筋もあった。

②薩摩諸島の黒島(枕崎から南西約60Km,竹島・硫黄島と並んだ小さな島)片方は
  大里村といい,殿上人の末裔が住み,反対側の片泊村には従者が住んだ。
  ─特攻の町・知覧(佐藤早苗)。

③対馬の藩主宗氏:安徳天皇の落胤とも平知盛(平氏の総大将)の子孫とも謂う。

④平氏の落人が隠れ住んだという平氏部落は、民俗学者の調査によると、全国に
  60~70ヶ所ある。中でも有名なのは熊本県五箇荘(ゴカノショウ)、宮崎県椎葉(シイバ)村、
  米良(メラ)荘、徳島県祖谷谷(イヤダニ)、石川県白山山麓、長野・新潟県境の秋山郷(ア
  キヤマゴウ)、福島県只見(タダミ)川の谷などである。


桓武平氏系図
プロフィール

愛犬・りく君

Author:愛犬・りく君
茨城県日立市十王町で
漢方整体院を経営してます。

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