種継暗殺事件

桓武天皇は即位後数年の間は初政の指導に忙しく、新都の造営など念頭に無かった。
ところが、本腰を入れて征夷の事業に取り掛かるや、それに刺激されて遷都の問題が
にわかに心を捉えるようになった。
桓武天皇には、征夷と遷都はいずれも帝王の誇るべき大業として受け取られた。

天平以来の争乱と頽廃の源、わけても堕落を極めた幾千の坊主の巣窟と化した平城京に、
桓武は何の未練も持たなかった。
この地にはまた、井上皇后の亡霊が揺曳している。

天皇の新都の企てを強力にバックアップしたのは、藤原百川の甥の種継であった。
百川の遺子緒継はまだ年少で、天皇の式家に寄せる恩寵は、ここの所種継に集中した。
種継もまた百川の如く機略に富み、その上行動力に秀でた人物であった。

延暦元(782)年3月に、参議に任ぜられて公卿に列すと、6月に正四位下;
延暦2(783)年4月に従三位、同年7月には式部卿兼近江按察使に任ぜられた。
延暦3(784)年正月には正三位藤原小黒麻呂北家)とともに中納言に叙任され、
更に同年12月には先任の中納言・大伴家持を出し抜いて正三位となった。

太政官-延暦1~5年 

先任の従三位中納言大伴家持は、春宮大夫を兼任のまま、延暦3(784)年2月には
持節征東大使に任ぜられ、陸奥に赴任していた。家門の復興を忘れなかった家持は、
その晩年の望みを早良親王の明日にかけていたに相違ない。

早良親王は立太子されるまで、親王禅師と呼ばれ、南都寺院に強い影響力を持っていた。
立太子されてからも南都寺院と深い関わりを持っていたという。

この皇太子と種継はもともと不和であったとされている。
【日本後紀】卷第二十・弘仁元年九月十日条には
「続日本紀所載の崇道天皇與贈太政大臣藤原朝臣不好之事、皆悉破却賜てし、
而更依人言て、破却之事如本記成。此も亦无禮之事なり、今如前改正之状」とあり、
不和であった事を記す【続紀】の記事は、早良親王の名誉回復時に削除され、
平城天皇の時代に復活されたが、薬子の変に際して再度削除されたという。

当時平城京は人口10万人を抱えており、陸路交通が限界となり、新たな水路交通網を
確立させる必要があった。
平城京の唯一の外港は山背国の(木津川に設けられた)泉津であった。
泉津の範囲はなお詳細不明だが、恭仁京は右京域に(既存の)泉津を組み入れたという。
大和盆地への水運は泉津が全面的に担っており、木津川は水運の大動脈であった。

種継は天皇に対して新京の地として山背国乙訓郡長岡村をすすめた。
乙訓地域は、古くから水陸交通の至便な地で、特に水運として桂川、小畑川、小泉川が
都の中を貫流し、中心部の宮域付近まで船により物資運搬が可能であった。

また、水路による港も葛野井津、山崎津、筑紫津、淀津、宇治津などがあり、
丹波国など北からの荷は葛野井津;近江などの東からや大和など南からの荷は淀津;
瀬戸内海沿岸の国々など西からの荷は筑紫津や山崎津へと水路で輸送し、
そこから更に陸路・水路で都へ運ぶことが出来る。

長岡京周辺の水陸交通網 

また、山背に力を扶植してきた帰化人の秦氏の本拠地葛野郡に近いことから、
秦氏の協力のことも検討されたに違い無い。種継の母は秦氏であった。
桓武天皇の母も帰化人の高野氏であり、この君臣は母系或は閨閥において
帰化人(特に百済王氏東漢氏)に繋がるところがあり、彼らの動静によく通じていた。

延暦3(784)年5月16日、天皇は勅を発して、既に内定した新京の地たる長岡を視察させた。
その任を受けて現地に赴いたのは、
藤原小黒麻呂:中納言
藤原種継:中納言
佐伯今毛人:左大弁
紀船守:参議・近衛中将
大中臣子老:参議・神祇伯
坂上苅田麻呂:右衛士督
佐伯久良麻呂:衛門督
船田口:陰陽助(系詳ならず、主税大属・船今道の一族と思われる)。

6月10日、種継・今毛人・船守らが造長岡宮使に任命され、造営事業がいよいよ本格化した。

6月13日、天皇は格(法令)を諸国に下し、この年の調・庸と、「宮を造る工夫の用度の物」を
長岡に進納させた。
同じ日、参議紀船守は勅使として賀茂社に赴き、長岡遷都を報告して神助を乞うた。

6月23日、新京に邸宅を造らせるために右大臣・藤原是公南家)から参議までの
太政官執政部と内親王・夫人らに諸国の正税6万束を給した。
6月28日、百姓の私宅が新宮の敷地に取り入れられた57町の分に対し、山背国の
正税4万3千余束をその主に与え移転を急がせた。

7月4日、阿波・讃岐・伊予の三国に仰せて、山崎の橋の料材を進むしむ。

11月11日、造営が進む中、天皇は平城京から長岡京に移った。
遷都を急いだのは、敵対勢力の妨害をできるだけ避けようとする意図があったという。
古代の遷都では、旧都を解体して移築するのを常としたが、長岡遷都の場合は
平城京ではなく、難波宮を解体し移築した。
長岡造都を全面的に種継に委ねたのも、遷都への批判をそらす意図があったという。
【続紀】には「天皇甚だこれ(種継)を委任し、中外の事皆決を取る」とある。
長岡京の造営で、桓武天皇は一度も工事現場に足を運 んだ形跡がない。
次の平安造都では40回近くも現場に赴 き、工事を督励 している。

12月18日、長岡宮の宮城を築いた功により、外正八位下秦足長は従五位上を授けられた。

延暦4(785)年1月1日、長岡宮の大極殿で朝賀の儀式が行われた。

5月19日、参議兼皇后宮太夫の佐伯今毛人が、赤雀一隻が皇后宮に飛来したことを報告。

6月10日、天皇は皇后宮に赤雀が飛来したことを祥瑞とみなし、詔を下して
広く有位の人々に恩典を施した。

8月23日、太政官院の垣を築いた功により、従七位上大秦公宅守は従五位下を授けられた。

8月24日、朝原内親王の伊勢下向を見送るため、天皇は平城宮に行幸した。
皇太子早良親王・右大臣藤原是公・大納言藤原種継らが留守を命ぜられた。

8月28日、中納言従三位大伴家持が任地で死去した。享年67歳。

9月23日の夜、亥の刻(夜10時ころ)に種継は何者かに射られ、両箭が身をつらぬいた。

9月24日、凶報に接した天皇は急ぎ平城をたって新都に帰って来たが、既に寵臣は息を
引き取っていた。時に種継49歳であった。

朝廷は直ちに犯人の捜査にのりだし、大伴継人ら数十名の者を容疑者として逮捕した。
大伴・佐伯両氏の官人が暗殺団の張本人で、しかも春宮職に務めている者が数名いた。

首謀者の左少弁大伴継人らは勅使に対して、
「故中納言大伴家持相謀りて曰く、よろしく大伴佐伯両氏に唱え、以て種継を除くべし。
因りて皇太子に啓して、遂にその事を行なう」と述べた。

取調べの末、大伴継人ら十数名が斬首となり、事件の25日前に死去した大伴家持
首謀者として除名(官位勲等を全部剥奪して平民とする)の処罰を受けた。
事件に連座して五百枝王藤原雄依紀白麻呂大伴永主らが流罪となった。
大伴家持系図 

9月28日、はついに皇太子早良親王に及び、戌の刻(午後8時ころ)に、親王は身柄を
春宮から乙訓寺に移された。
親王は自ら飲食を断ち無罪を訴えるが、十余日後に淡路国へ移送時に、淀川の高瀬橋
付近で絶命した。享年35歳。

11月25日、安殿親王(12歳)が新たに皇太子に立てられた。

都の造営は継続して進め られ、延暦5(786)年7月19日には、太政官院が完成した。

延暦8(789)年2月27日、天皇は西宮(第一次内裏)から、東宮(第二次内裏)に移った。

延暦10(791)年9月16、越前・丹波・但馬・播磨・美作・備前・阿波・伊予などの国々が
担当して、平城旧宮の諸門を壊して長岡京に運んだ。
これが造都に取り掛かってからまる7年後の状況であった。

長岡京への遷都は「水陸便有りて、都を長岡に建つ」とあるように,水陸の便を
求めてであった。
しかし利便性をもたらした河川は、大雨によってたびたび氾濫し、大きな災害をもたらした。
特に左京区は桂川に接しており,その脅威は大きかった。字治川木津川からの出水も
合わせ巨椋池の水位が上昇したら、左京区は著しい脅威を受ける。

長岡京内の河川 

淀川・大和川下流部は、両川より排出される土砂の堆積で、水害が多発していた。このため
三国川への疏通、大和川の開削工事が摂津大夫・和気清麻呂を中心に進められた。

延暦4年の三国川開削には成功したが、延暦7年に着手した大和川開削は上町台地を
突っ切るので木工事量が膨大で、のべ23万人を動員したが費用が嵩んで失敗している。

淀川河口 

【後紀】延暦18(799)年2月21日条の和気清麻呂の薨伝には
「長岡新都、経十載未成功、費不可勝計。清麻呂潜奏、令上託遊猟相葛野地、更遷上都。
清麻呂為摂津大夫、鑿河内川、直通西海、擬除水害。所費巨多、功遂不成」とある。
「清麻呂は密かに上奏し、遊猟にでかけることを口実に、天皇に葛野の地を視察させた」とある。

延暦11(792)年1月20日、天皇は好みの遊猟にことよせてしたしく葛野の地を視察した。

5月16日、天皇は葛野の地に行幸し、そこにある右大臣藤原継縄の別荘をも訪ねた。

6月22日、激しい雷雨により小畑川が氾濫し、式部省の南門が倒壊した。

8月9日、大雨により洪水で桂川が氾濫し、2日後には天皇自ら桂川畔赤目崎に行き
被害状況を視察した。
この水害が如何に凄まじく、甚大な被害をもたらしたかをうかがわせる。

自然災害の猛威は、桓武天皇に長岡京造営を断念さた。
延暦12(793)年1月15日、天皇は大納言藤原小黒麻呂北家)・左大弁紀古佐美らを
派遣して新京の地・山背国葛野郡宇太村を視察させた。

1月21日、長岡宮を解体するため、東院(第三次内裏)に移った。

造宮太夫は、初めは藤原小黒麻呂北家であったが、のちに和気清麻呂にかわり、
造宮亮は菅野真道であった。

3月1日、天皇は多数の臣僚を従えて葛野の地を視察した。

3月7日、新京の宮城の内に取り込まれる百姓地四十四町に対して、3ヵ年の価直を
給することにした。これ以後、造京第一年は土木工事が大急ぎで進められた。
その間に、天皇は督励を兼ねて幾度(40回近く)も新京つくりの現場を視察している。

9月末、朝廷は幣帛を諸国の由緒ある神社に捧げ、遷都と蝦夷征伐の幸先を
全国土の神々に祈願した。

10月22日、桓武天皇は皇太子以下公卿百官人をえて、葛野郡の新京に入った。

11月8日、桓武天皇は詔を出して、平城京の「山背国」は「山城国」に改め、
新都には唐めかして「平安京」の名称を与えた。
同じ日、旧都大津宮の名称を重んじ「古津」の名を「大津」に改めた。

平安京は長岡京と同様に水陸の便がよく、水陸路とも完成された四通八達の都であった。
特に水路は北や東からは大津・宇治津;南や西からは淀津・山崎津;西北方の丹波からは
大井津(葛野井津)というように、四方にそれぞれに機能分担した外港が設けられていた。

大津は更に琵琶湖北岸を経由して日本海に出るという重要な利点を持っていた。
【書記】仲哀天皇2年3月15日条には、
「即日使遣角鹿、勅皇后曰:便従其津発之、逢於穴門」とあり、
神功皇后が九州に赴く時、角鹿(敦賀)から日本海を西航したと記されている。

敦賀津は、古くから日本海中部以西はもとより、遠く朝鮮・中国へも繋がる要港であった。
日本海との連絡について見れば、長岡京より平安京の位置が更に有利である。

琵琶湖の水運ルート 

【延喜式】・卷第廿六の諸国運漕雑物功賃条によると、
越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡など北陸地方からの荷物は、敦賀へ海路輸送され、
そこから塩津へ陸送され、塩津からは船で大津へと渡り、陸路で京都へ運ばれている。
また、若狭国からの荷物は勝野津まで陸送され、そこから船で大津へ運ばれている。

大津は琵琶湖を経て京都へ至る物資輸送の中継地として、江戸時代の初めに西廻り
航路が開発されるまで、幕府及び北陸・東北諸国の倉庫が立ち並び賑わっていたという。



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愛犬・りく君

Author:愛犬・りく君
茨城県日立市十王町で
漢方整体院を経営してます。

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