承和の変

嵯峨上皇による大家父長的支配は、すでに30年近くも続いた。
この間に藤原良房は嵯峨上皇と皇太后橘嘉智子の信任を得て急速に台頭し始めていた。
仁明天皇には、故冬嗣の女順子の腹に生まれた長子道康親王がおり、良房に擁せられて、
皇太子にとってのライバルの関係を作っていた。

良房は道康親王の皇位継承を望んだが、嵯峨上皇の威勢をはばかってしばらく隠忍の態度を
持っていた。
道康親王を皇太子に擁立する動きがあることに不安を感じた恒貞親王と淳和上皇は、
しばしば皇太子辞退を奏請するが、その都度、嵯峨上皇に慰留されていた。

承和の変 

承和7(840)年5月8日、淳和上皇は恒貞親王の即位を見届けることなく、忠実な側近藤原吉野
(式家)に親王の後事を託して崩御した。春秋55。
その二年後の承和9(842)年7月、上皇は病の床に伏し、再起の望みはすでに無かった。

東宮に勤仕する帯刀舎人伴健岑、その盟友の但馬権守橘逸勢らは、嵯峨上皇が息を引き取る
ならば、皇太子恒貞親王の身辺は危険なものになるだろうと危惧の念を深めていた。
彼らは皇太子の身に危険が迫っていると察し、皇太子を東国へ移すことを画策し、その計画を
阿保親王に相談した。

阿保親王は、そのことを仁明の生母で逸勢の従姉妹でもある檀林皇太后に密書にて上告した。
皇太后は事の重大さに驚き、直ちに実力者の中納言良房を招いて親王の上書を示した。
嵯峨院での二人の密議はこの事件の展開に決定的であった。

7月15日、太上天皇崩于嵯峨院、春秋57。
その2日後の17日、仁明天皇は六衛府の兵力を以て皇居と京辺を戒厳するとともに、
健岑・逸勢とその与党とみなされるものを逮捕した。

皇太子は直ちに辞表を天皇に奉ったが、皇太子には罪はないとして一旦は慰留された。
伴・橘両氏の者のなかで二人と関係の深い者は、捕らえられるかそれとも疑惑を解くために
進んで官司に出頭した。

嵯峨上皇没後8日目の23日になり、政局は大きく変わった。
勅使左近衛少将藤原良相が、近衛府の兵を率いて皇太子の座所を包囲した。
ここに出仕していた大納言藤原愛発・中納言藤原吉野・参議文室秋津も院中に
閉じ込められた。

その日、仁明天皇は詔を発して伴健岑・橘逸勢らを謀反人と断じ、その責を恒貞親王にも
問い皇太子を廃した。
藤原愛発は栄職を解いて京外追放、藤原吉野は大宰員外帥、文室秋津は出雲員外守に
それぞれ左遷された。
橘逸勢は姓を非人と改められて伊豆国に流されたが、護送途中に遠江国板築で死んだ。
伴健岑の配所は隠岐国であった。
また、春澄善縄ら東宮職・春宮坊の役人60余人が流刑の憂き目にあった。

猪名部氏(猪名部造):物部氏の庶流で、伊勢国員弁郡を本拠地とする地方豪族。
 【三代実録】貞観十五年九月九日:「掌侍従五位上春澄朝臣高子奉幣氏神、向伊勢国。」
 伊勢国員弁郡に鎮座する猪名部神社(式内社)は、この氏が氏神としていたと見られる。

春澄善縄 

7月25日、正三位藤原良房為大納言、右近衛大将陸奧出羽按察使如故。
正三位源信為中納言、左衛門督如故。正四位下源弘・從四位上滋野貞主並爲参議。

8月4日、仁明天皇は長子道康親王(16歳)を皇太子に立てた。
以右大臣源常為皇太子傅、参議安倍安仁為春宮大夫、正五位下小野篁為学士。

この一場をもって承和の政変は慌ただしくその幕を閉じた。
承和の変において、良房は仁明天皇の胸裏に秘められていた父としての願いを満たして
やることによって、おのれの権勢への限りない野望の道を大きく開いた。

良房の望みどおり道康親王が皇太子に立てられたばかりでなく、古い名門である伴・橘の
両氏に打撃を与え、また藤原一門の高官で競争相手であった愛発・吉野を政界から放逐した。

附:仁明天皇系:仁明源氏、文徳源氏清和源氏、陽成源氏。 
仁明天皇系図    
附:人康親王  渡辺綱  源満仲  後藤則明    

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崇文の治

平城上皇による挙兵の企てを挫折させ、政治的惑乱を鎮定した嵯峨天皇の治世から、淳和を
経て仁明の承和の変「承和9(842)年」に至るまでの33年間は、天皇親政下の安定した治世で、
「崇文の治」という。

大同5(810)年9月13日、嵯峨天皇は詔を下して「薬子の乱」の後始末をつけた。

9月15日、改大同五年為弘仁元年

9月16日、参議正四位上文室綿麻呂為大蔵卿兼陸奥出羽按察使。

12月27日、六衛府のうち、左右近衛府の定員を旧に復して各400人とした。
平城上皇の変によって平安京の人々がひどく動揺し、不安の様相を呈したからである。

弘仁2(811)年5月23日、大納言正三位兼右近衛大将兵部卿坂上田村麻呂(54歳)薨。

10月11日、左右衛士府、左右兵衛府の定員を、それぞれ600人・400人の旧制に戻した。

11月28日、改左右衛士府、為左右衛門府。

弘仁5(814)年、日本最初の勅撰漢詩集・【凌雲集】全1巻が完成した。

編纂は嵯峨天皇が左馬頭兼内蔵頭美濃守の小野岑守に詔を下したことに始まる。
岑守は、式部少輔菅原清公・大学助勇山文継らと共にこの仕事を進め、決着の付きにくい
問題については、必ず天皇の意見を徴することにしていた。

播磨守賀陽豊年は、当代における文筆の大才であったが、老病のために引きこもっていた。
岑守は、かれの邸を訪れて教示を乞うた。

採択された詩編は90首、作者は23人(嵯峨作22首・豊年と岑守13首・清公4首・冬嗣3首)、
延暦元(782)年~弘仁5(814)年までの作品である。

勇山文継:河内国出身、皇太子・正良親王(のち仁明天皇)の東宮学士従四位下。
  弘仁元(810)年に同族の勇山家継・真継らと共に勇山連の姓を賜与される。
  こののち時期は不明ながら一族と共に勇山連から安野宿禰に改姓。

賀陽豊年:従四位下播磨守。
  賀陽氏(賀陽朝臣)は吉備氏の一族で上道氏の同系氏族。
  備中国賀陽郡を本拠とした豪族。
  文章博士、当代における文筆の大才。
  延暦16(797)年、皇太子・安殿親王(後の平城天皇)の東宮学士。
  弘仁6(815)年6月27日卒去、享年65。
  嵯峨天皇により仁徳天皇陵の近くに葬ることを許された。

6月1日、中務卿四品万多親王、右大臣縦二位藤原園人等、奉勅撰姓氏録、至是而成。

弘仁7(816)年、左右衛門府内に検非違使を創設した。
 検非違使の職掌は、主に京内外の巡検と盗賊・無法者の追捕であった。
 天長元(824)年、独立の機関として左・右検非違使庁を創設した。
 承和元(834)年、参議文室秋津を検非違使庁の別当に任じ、両庁の吏務を統一させた。
 承和6(839)年、従来の弾正台の追補のことを、すべて検非違使に一任させた。
 これによって、検非違使庁は京内外に対する警備権をほぼ完全に掌握した。

弘仁7年、最澄は強い憤懣のうちに空海との7年の親交を絶ってしまった。
 空海が最澄からある典籍の借覧を求められたのに応じなかった。
 のみならず、空海のもとで修行していた最澄の弟子泰範は、ついに比叡山寺に帰ることを
 拒み、真言の徒となった。
 嵯峨天皇はもとより和気広世なども、二人の不和をとりなした形跡が認められない。

弘仁9(818)年、勅撰第二漢詩集・【文華秀麗集】全3巻が撰進された。

嵯峨天皇は、再び詩集の撰進のことを大納言藤原冬嗣にはかり、大舎人頭兼信濃守の
仲雄王(系詳ならず)に命じてことに当たらせた。
凌雲集】の編者であった菅原清公安野文継もこれに加わり、大内記滋野貞主・少内記兼
播磨少目桑原腹赤が編者に抜擢された。
作者は28人、収録の詩編は148首であり、渤海使節や女流詩人の作品も収めるという。

桑原腹赤:正五位下・文章博士。
桑原腹赤 
弘仁9年、空海は嵯峨天皇から与えられた紀伊國伊都郡の高野山に道場を設けた。

弘仁10(819)年、嵯峨天皇は、大納言藤原冬嗣(北家)・中納言藤原緒嗣(式家)らに
勅を下して、「続日本紀」に続く年代の国史の編纂に着手させた。しかし、嵯峨の退位、
ついで冬嗣の死などのために、この修史事業はいつしか中だるみの状況に陥った。

次代の淳和天皇は、権大納言清原夏野・参議小野岑守・紀伝博士坂上今継(系詳ならず)・
大外記島田清田らをこれに参加させ力を入れたが、それがほぼ完成したのは仁明朝の
承和7(840)年であった。「日本後紀」というのがそれである。
緒嗣は翌年の末にこの国史を天皇に提出した。

延暦11(792)年~天長10(833)年までの年代を取り扱い、全40巻という大部のもので、
現存するのはわずか10巻だけで、あとの30巻は早く散逸してしまった。

島田清田:尾張国の地方豪族の出と伝わる。
島田清田 

養老4(720)年に「日本書紀」、延暦16(797)年に「続日本紀」、承和7(840)年に「日本後紀
ほぼ100年の間に官府の編纂による三つの国史が世に出たわけで、ここに歴朝編年史の
大裁も整えられた。これ以後も「続日本後紀」「日本文徳天皇実録」そして「日本三代実録」が
書き継がれた。これら全てをひっくるめて「六国史」とよばれる。

弘仁10年5月、最澄は天台法華宗年分学生式を作り、山上での修道について規定した。
大同2(807)年以来の天台宗年分度者の半数は比叡山寺に留まることなく離散し、若干
の者は最澄の当面の対立者である法相宗のもとに身を寄せているという状況であった。

東大寺戒壇から彼らを自由にして天台の徒たらしめるには、比叡山寺に大乗円頓戒壇を
開立しなくてはならなかった。
最澄は、ついに朝廷に表を差し出し許可を求めた。

嵯峨天皇はこの問題について僧綱の意見を徴した。
諸大寺の僧たちは、僧綱らと共にそれぞれ上表して最澄の企図に反対した。
最澄はそれらに反駁を加え、天台の主張を一層明らかにするために、「顕戒論」を起草し、
弘仁11(820)年2月にこれを朝廷に提出した。

それ以後の数年、朝廷はこの問題に決着を付けなかった。
最澄はまったく健康を損なっていた。
弟子光定は、大乗戒壇の実現のために、右大臣藤原冬嗣・中納言良岑安世・参議藤原三守
大伴国道らを説いて回った。

弘仁11(820)年、「弘仁格・式」編纂を終わる。
桓武天皇には格・式の編纂の意図があり、藤原内麻呂(北家)、菅野真道らがその選定に
当たっていたが、完了には至らなかった。
嵯峨天皇は父天皇の遺業を受け継ぎ、内麻呂の息冬嗣、藤原葛野麻呂(北家)、秋篠安人
らに命じてそれの法典化を担当させた。
弘仁11(820)年に格10巻・式40巻の編纂を終えたので、天皇はこれを諸官庁に示して
検討させ、天長7(830)年に完成した。これを「弘仁格」「弘仁式」という。

弘仁12(821)年5月、讃岐国より空海上人を奉行して勅遣して頂きたいと朝廷へ願い出た。
「讃岐国言。始自去年、隄満濃池、公大民少、成功未期。僧空海此土人也・・・百姓恋慕
如父母、若聞師来、必倒履相迎。伏請。充別當、令済其事。許之」。
空海は朝命を受け、讃岐国満濃池の修築工事を指揮し、わずか3ヶ月ほどで終えた。

弘仁13(822)年6月4日、伝燈大法師位最澄卒。ときに56歳。
死後7日目に、嵯峨天皇によって最澄宿願の大乗戒壇の設立が許された。
翌弘仁14(823)年に比叡山寺は山号を延暦寺と改め、その勅額を受けた。

その後天台宗は円仁によって一段と密教化され、その教団の力はすこぶる強大となり、
円珍・安然らの著名な後継者を次々と生み出していった。
円仁は貞観6(864)年に没したが、2年後の866年に清和天皇は唐の制にならって
最澄に「伝教大師」、円仁に「慈覚大師」の諡号を与えた。
金剛峯寺の座主観賢の度重なる要望を入れて、醍醐天皇が空海に「弘法大師」の諡号を
贈ったのは、はるか後の延喜21(921)年のことである。

弘仁14(823)年1月、嵯峨天皇は東寺を空海に与えた。
東寺は桓武天皇によって創立され、この年代においても造営を続けていた平安京内の
官寺であった。弘仁14(823)年から承和2(835)年に至る年代は、空海の全盛期である。
嵯峨天皇の空海への愛顧がかれの諸々の事業の最大の支えであった。

4月10日、帝遷冷然院。詔右大臣藤原朝臣冬嗣曰:「朕思傳位于皇太子矣。今将果宿心、
故避宮焉」。冬嗣曰:「・・・豐稔未復。若一帝二太上皇、臣恐天下難堪・・・」。

嵯峨天皇は、気鋭の兄・平城上皇とは違い、穏やかでゆったりした人物であった。
決して新政の姿勢を崩さなかったが、政治を多く公卿グループに委ねていた。
嵯峨天皇は14年間の執政にあきあきして、冷然院という離宮にうつり、右大臣藤原冬嗣に
退位のことを伝えた。

冬嗣は即座に反対した。その理由は、いま世上は連年の不作に苦しんでいるのに、
一天皇二上皇の負担に耐え難いという一事にあった。

しかし嵯峨天皇はその諫言に耳を傾けることなく、皇太弟に皇位を譲った。天皇の切に
欲したところは「山水に詣でて逍遥し、無事無為にして琴書をも翫ぶ」ことであった。

4月16日、大伴親王が即位し、淳和天皇となった。
淳和天皇は、嵯峨上皇の皇子正良親王(のちの仁明)を皇太子に立てた。

嵯峨上皇はこれから19年間、大御所として、弟の淳和の時代、嫡子の仁明の治世の
前半を見守ることになる。
兄平城上皇から深い痛手を受けた嵯峨上皇は、天皇としての淳和の位置を重く見て、
ほとんど大政に介入しなかった。

淳和天皇もごく温和な、漢字の教養に富んだ天子であった。
淳和朝は、だいたい前朝の諸政策を継ぎ、ほとんど新味は見せなかった。

嵯峨天皇系図   

坂上春子  百済王氏  橘清友  藤原総継  高見王  紀静子  貞純親王
源経基  渡辺 綱

弘仁15(824)年1月5日、改弘仁十五年、爲天長元年
この年、政府は公水を利用しながら池溝の修築を怠る農民に対して、杖80の実刑に
処することにした。

天長2(825)年、政府は国府の歳費として修理池溝料を計上することにした。

天長3(826)年清原夏野の奏上に基づき、上総常陸上野の3国を親王任国に指定。

天長4(827)年5月20日、詔中納言良岑朝臣安世・東宮学士從五位下滋野朝臣貞主等、
撰近代詩人所作之詩、勒成廿卷、名曰「経国集」。

第三の勅撰集編成の命を受けたのは、中納言兼右近衛大将春宮(仁明)大夫良岑安世
かれは、参議式部大輔南淵弘貞・東宮学士安野文継・同滋野貞主・中務大輔安倍吉人らを
編集のスタッフとした。大学頭兼文章博士菅原清公がこれに関与したのは言うまでもない。

この度は、慶雲4(707)年~天長4年(827)に至るまでの作品を集めた。
内容は、賦17首・詩917首・序51首・対策38首が収載され、作者は178人。

嵯峨上皇の第9皇女・有智子内親王の作品は「経国集」の異彩である。
文華秀麗集」にも宮廷の女人の作が収められており、これらの女性は、その後11世紀の
紫式部清少納言らの先駆者である。

三勅撰集全てが嵯峨の発議によるものであり、彼をとりまく文筆をよくする官僚の手で
編成された。三勅撰集で接しうる嵯峨天皇の詩は85首である。
嵯峨天皇は書道にも優れ、空海、それに橘逸勢を加えて三筆という。

南淵弘貞:従三位・参議。
南淵弘貞系図  

天長6(829)年、政府は諸国に命令を下して灌漑用の水車を設けさせた。

天長10(833)年2月、右大臣清原夏野、中納言直世王源常藤原愛発、権中納言藤原吉野
参議南淵弘貞文室秋津藤原常嗣、侍殿上、校讀所新撰令釋疑義起請。

明法博士額田今足(系詳ならず)の建策に従い、令文の解義の統一をはかることにした。
淳和天皇は右大臣清原夏野に命じてことに当たらせた。
文章博士菅原清公ら当代のすぐれた法家・学識者12人がこの事業に参加した。
天長10(833)年に「令義解」10卷が完了し、翌年に公布された。

天長10年3月6日、仁明天皇即位於大極殿。
淳和天皇は治世ほぼ10年にして、皇位を皇太子に譲って嵯峨上皇を喜ばせた。
その仁明天皇は、淳和上皇の皇子で仁明の甥に当たる恒貞親王を皇嗣に立てた。

嵯峨から仁明に至る王権の継承は、皇室の自律のもとに平穏に行われた。
光仁・桓武父子王朝さらに平城の場合と様相が著しく異なって、他の皇族はもとより
貴族・大官は誰も介入する者が無かった。

嵯峨上皇の権威は大きく重い。
仁明朝に至って、嵯峨源氏の多くは藤原氏の諸流に対抗する一大勢力となった。
承和11(844)年には、源常は左大臣、兄・源信は中納言、源弘・源定は参議に列した。
嘉祥元(848)年には、源常(38歳)は左大臣、良房(45歳)は右大臣、源信(39)は大納言、
源弘は中納言であった。
源氏は例外なく政治的経験に乏しく、嵯峨上皇の大家父長的庇護のもとに、朝廷の大勢力
としてにわかに抬頭した。 

太政官(嵯峨~文徳) 
附:春原五百枝  三原春上  朝野鹿取  藤原氏宗  正躬王  

嵯峨上皇は、その血族をもって王権を固めたばかりではなく、藤原氏との結託も疎かに
しなかった。特に冬嗣との関係を深め、その女源潔姫を冬嗣の次子良房に与えた。
桓武天皇は延暦12(793)年に詔を下して、藤原氏に限って二世以下の女王を娶ることを
許したのだが、天皇の娘が臣下に嫁するのは全く先例のないことであった。
冬嗣・良房の北家の流れは、政治的に極めて有利な位置をしめていたが、将来において
嵯峨源氏との対決が避けられないという状況も思い知らされていた。

天長11(834)年1月3日、改天長十一年為承和元年

1月19日、任遣唐使。以参議從四位上右大辨兼行相摸守藤原常嗣為持節大使、
從五位下弾正少弼兼行美作介小野篁為副使。

平安朝に入ってから31年ぶり第二回目の、結果的には最後(17回目)の遣唐使となった。
承和3年と翌承和4年の2回に亘り出帆するが、いずれも渡唐に失敗する。
その間に、大使常嗣の専断を憤った副使篁は、自身の病気や老母の世話が必要である
ことを理由に乗船を拒否した。
遣唐使は篁を残して、承和5(838)年6月に渡海の途についた。
大使以下の一行の総数は600人を超え、その中には天台の僧円仁らの姿もあった。
承和6(839)年、大使らは新羅船九隻を雇って、北九州に帰着した。

承和2(835)年3月21日、大僧都傳燈大法師位空海終于紀伊国禅居。ときに62歳。

承和3(836)年3月19日、外従五位下大判事明法讃岐公永直、右少史兼明法博士
同姓永成等合廿八烟、改公賜朝臣。永直是讃岐国寒川郡人、今与山田郡人外従七位
上同姓全雄等二烟、改本居貫附右京三條二坊。
永直等遠祖、景行天皇第十皇子神櫛命也。
讃岐氏系図 

閏5月25日、河内国人美濃国少目下村主氏成、散位同姓三仲等賜姓春瀧宿祢
其先遠祖出自後漢光武帝之後者也。

承和5(838)年12月15日、勅曰:「小野篁内含綸旨、出使外境。空称病故、不遂国命。
准拠律條、可処絞刑、宜降死一等、処之遠流、仍配流隠岐国」。

承和7(840)年5月8日、後太上天皇崩于淳和院、春秋55。

承和8(841)年、政府は法令を出して稲木(おだ掛け)の普及に力を入れた。
この時代に、大和国宇陀郡の人は、田の中に木を組んで、それに稲束を掛けて
秋日に乾燥させていた。
稲架:はさ、はざ,いねかけ,いなぎ,いねぎ,かかけ,おだ,あし,だて等。

5月、武蔵国男衾郡榎津郷の戸主壬生吉志福正が二人の子供の一生分の調・庸を前納。

承和9(842)年、7月15日、太上天皇崩于嵯峨院、春秋57。


藤原良門(勧修寺流)系図              藤原長良(法性寺流)系図
藤原長良&良門系図系図  
附: 上杉重房  源頼綱  藤原定房  平惟範  有馬康純  肥前国大村藩 


日本の歴史      日立市川尻町-漢方整体院

薬子の変

延暦20(801)年8月10日、桓武天皇は藤原葛野麻呂北家)を遣唐大使に、石川道益
副使に任じた。
遣唐使らは延暦22(803)年4月に難波津より出航するが、船が損傷し航行不能となり、
翌年7月に再度出発した。
その一行に、仏教界の新人として朝野の注目を浴びていた最澄空海が天皇の特別の
はからいで加えられ、また橘逸勢菅原清公(道真の祖父)も加わっていた。

延暦23(804)年はとりわけ天皇の出遊が多く、まだ心身ともに衰えを見せなかった。
ところが12月25日、天皇はにわかに心身の不調を来たし、年を越えても本復しなかった。

延暦24(805)年4月6日、天皇は皇太子をはじめ参議までの太政官閣僚を宮中に招集して、
死後のことを託した。
天皇は井上皇后早良親王らの怨霊に悩まされ、日ごとに衰弱を加えて行った。

12月7日、天皇は参議兼右衛士督藤原緒嗣式家)と参議兼左大弁菅野真道
宮中に招き、「天下の徳政」を論じさせた。
緒嗣は「方今天下の苦しむところは、軍事と造作となり。この両事を停めば、百姓これ
安んぜん」と進言した。これに対して、造宮亮の職についたこともある真道は、
強くその提案に異議を唱えて譲らなかった。
天皇は緒嗣の意見を採択し、直ちに計画中の第四次蝦夷攻伐と平安宮の造営を
打ち切ることにした。

延暦25(806)年3月17日、桓武天皇はあしかけ25年におよぶ親政に疲れ果て、
内裏正殿で崩御した。享年70歳。
5月18日、安殿親王(33歳)は大極殿において即位し、元号を「大同」と改めた。
これを平城天皇という。
皇太子には12歳年少の同母弟の賀美能親王をたてた。

平城朝は、内政や征夷の面で前代に著名な業績をあげた幾多の人材を台閣に擁していた。
藤原氏の諸流は、ここでもやはり競合の関係を際正せていた。
✤ 右大臣:藤原内麻呂北家
✤ 大納言:藤原雄友南家
✤ 中納言:藤原乙叡南家
       坂上田村麻呂
       紀勝長
  議:菅野真道
       藤原縄主式家
       藤原緒嗣式家
       秋篠安人
       藤原葛野麻呂北家
       藤原園人北家
太政官(光仁~平城 

平城朝の第一歩は、即位後わずか6日しか経っていない5月24日の「六道観察使」の
創設であった。桓武朝の初政以来地方行政に関する監督に力が注がれたが、然したる
実効をあげえず、むしろ停滞していた。
平城天皇と藤原緒嗣式家)らは荒廃する地方政治に活を入れようとしたのである。
観察使の長官にはすべて参議をあて、その特典として食封二百戸が与えられた。
翌大同2(807)年4月には、東山道および畿内にも観察使が置かれ、参議を廃止した。

他方、造都と征夷で疲弊した財政緊縮のため、冗官・冗員の縮小方針を実施に移した。
このように平城天皇は初政の短い時期以来、政治に意欲的に取り組み、政治経済の
立て直しを推し進めた。

大同2(807)年の前半の朝廷の状況はいたって平穏であった。
5月20日、天皇は亡父の好みの場所であった神泉苑に行幸し、伊予親王は天皇のために
献物し、君臣の宴飲は終日におよんだ。

伊予親王の母は桓武天皇の婦人・吉子である。
吉子の父是公南家)は延暦2年~延暦8年まで、右大臣として台閣の首座を占めていた。
雄友は大同1(806)年4月に大納言となり、右大臣内麻呂につぐポストについていた。
伊予親王はこういう背景においてもすこぶる恵まれていた。
平城天皇系図 
 
安殿親王は延暦7年1月15日(15歳)、伊予親王は延暦11年2月5日(年齢は不明)、
賀美能親王は延暦18年2月7日(14歳)に元服している。
父桓武天皇も親王に三品をさずけて厚遇し、しばしばその山荘に行幸して交歓を重ねた。
平城朝において、伊予親王は中務卿の地位を占め、大宰帥をも兼ねていた。

皇族の重鎮として羽振りをきかしていた伊予親王は、にわかに暗雲に包まれてしまった。

10月28日、蔭子藤原宗成、勧中務卿三品伊予親王、潜謀不軌。
大納言藤原雄友聞之、告右大臣藤原内麻呂
於是、親王遽奏宗成勧己反之状。即繋於左近府。─【日本紀略】

10月30日、繋宗成於左衛士府、按驗反事。
宗成云:「首謀反逆是親王也」。
遣左近中将安倍兄雄・左兵衛督巨勢野足等、率兵百五十人、囲親王第。─【日本紀略】
この時、兄雄は躊躇うことなく親王の潔白を論じて天皇を諫めたという。

11月6日、徙親王并母夫人藤原吉子於川原寺、幽之一室、不通飮食。─【日本紀略】
注:「不通」者犹「不共」也。

11月12日、親王母子、仰薬而死。時人哀之。─【日本紀略】

この事件に連座して大納言藤原雄友南家)は伊予国へ流罪となった。
また、この事件に絡んで中納言・藤原乙叡南家)も解官の憂き目を見た。
彼の失脚は、さきに酒席での振る舞いが天皇から不敬と見られていたことによると言われる。
ともあれ、この事件のあおりを食って、一時に南家の大官二人が没落してしまった。
問題の人物藤原宗成北家)は流刑となったが、配流の地は不明である。

【日本後紀】のこの年の部分(卷第16)が散逸してしまったので、伊予親王が謀反の
首謀者に仕立てられた真相を究明することは困難であるが、平城天皇にして見れば、
伊予親王は皇位継承者たりうる有力な異母弟の一人であった。
なお、事件の陰に藤原仲成・薬子兄妹の陰謀があったとも言われるが、定かではない。

仲成は桓武朝初期の権臣種継式家)の長子で、薬子は仲成の妹である。
父・種継が横死しなかったならば、桓武天皇の時代に栄進の機会に恵まれていたであろう。
当時は従四位下右兵衛督の位にあり、北家の内麻呂・葛野麻呂・園人、同じ式家の緒嗣・
縄主、南家の雄友・乙叡らに後れを取っていた。
変後仲成は左兵衛督・右大弁と要職を歴任し、大同4年(809年)には北陸道観察使に
任ぜられ公卿にした。

観察使  

平城天皇の場合は薬子の存在が人々の関心を集めていた。
薬子は同じ式家の藤原縄主に嫁し、三男二女をもうけた。
そしてその長女が平城の東宮時代に選ばれてその宮に入った。
これがきっかけとなり、薬子は安殿太子に近づき、深い関係を結ぶに至った。

桓武天皇はこの事情を嫌い、薬子を東宮から退けたと伝えられている。
安殿親王が即位すると、二人の仲は元に戻り、尚侍へと進み天皇の寵愛を一身に受け、
兄の仲成とともに専横を極めた。

平城天皇に、皇后・夫人という称号を持つ者が無いのは、主として人妻薬子の存在による
ものと言われている。
妃の朝原内親王大宅内親王及び甘南美内親王はともに平城天皇の異母妹である。
東宮時代の妃帯子は、光仁天皇の寵臣藤原百川式家)の娘で、緒嗣とは兄妹の関係に
あるが、延暦13(794)年5月に没している。
延暦13(794)年は、平安遷都と第二次蝦夷征伐が決行された重大な画期であった。
平城天皇の後宮には、ほかにも伊勢継子葛井藤子大中臣百子紀魚員らがいた。

伊予親王事件を契機に、天皇と薬子・仲成の結びつきは更に強固なものとなったらしく、
薬子は従五位から一挙に従三位の官に準ずる位階に昇進した。
平城天皇には、天皇の外戚という王権に対する特殊な優位性を持つ者がいなかった。
そこに、薬子とその兄仲成が付け込んだのである。

大同4(809)年4月1日、平城天皇は詔を発して皇太弟への譲位の意を表した。
去年の春から寝膳に不安となり、なかなか回復しなかったためである。
天皇は身体の不調を早良親王伊予親王の亡霊の祟りによるものに帰して悩み続け、
王位を離れさえすればその禍から免れるのではないかと考えた。
無論、側近の薬子・仲成らの一派は強く退位に反対した。

平城天皇の申し出に対して、皇太弟はいくども表を呈して固辞したが、許されなかった。
4月13日、賀美能親王は、大極殿において即位し、嵯峨天皇となった。
翌日、平城上皇の皇子高岳親王を皇太子に立てた。

4月20日、嵯峨天皇は勅を出して、観察使の食封を停止し、外任(国司)を兼ねさせ、
公廨稲の配分に預からせた。
【日本紀略】には「頃年諸国損弊、百姓困乏。〈云々〉。今支度公用、頗有欠少。
宜暫返納、令兼外任、以彼公廨、代此食封」とある。
しかしこの観察使制度の見直しは、平城上皇の感情を刺激し、対立関係を生じさせた。

12月4日、平城上皇は水路をとって平城古京に行幸した。
【日本紀略】には「太上天皇、取水路、駕双船、幸平城。于時、宮殿未成、権御故右大臣
大中臣朝臣清麻呂家」とある。
また、【日本後紀】には「天皇遂傳位、避病於数処、五遷之後、宮于平城」とある。

上皇による平城古都の選定は、上皇の復位をもくろむ薬子・仲成の助言があった
からだと言われている。
いまや上皇の居所は、反嵯峨朝廷の策源地となった。

大同5(810)年1月1日、廃朝。以皇帝不予也。─【日本紀略】
嵯峨天皇は、おそらく旧年末に発病し、元旦には恒例の朝儀を廃せざるを得なかった。

2月8日、前年9月19日に中納言に上せたばかりの藤原園人北家)を大納言に起用して
台閣を強化した。

3月10日、天皇直属の蔵人所を創設し、春宮時代からの側近左衛士督・藤原冬嗣北家)と
左近衛中将・巨勢野足を蔵人頭に任命した。

これまでは、薬子が天皇の秘書である内侍司の長官(尚侍)であり、蔵司の長官である
尚蔵の職務も代行していた。
蔵人所の設置は平城上皇側に機密がもれないようにすることも目的であったという。

6月28日、天皇は詔を発して観察使を廃し、参議を復活した。
【日本紀略】には「宜罷観察使、復参議号、封邑之制、亦仍旧数」とある。
観察使制は、創置以来四ヵ年の、短いが、地方行政上にかなりな実績を残して
その歴史を閉じた。

7月13日、天皇は再び病臥し、その状態は記録によればほぼ一ヶ月続いている。
【日本紀略】の7月13日条には「聖躬不豫也」、同18日、20日条には「天皇不予」、
30日条には「聖体不予也」とある。

7月27日、朝廷は天皇の平復のために、早良親王伊予親王・藤原吉子の追福と
いうことで、それぞれ百人・十人・二十人の度者を定めた。

9月6日、平城上皇は平安京を廃して皇都を平城の故地に移すことを命じた。
当時の太上天皇には天皇と同様に国政に関与できるという考えがあった。
奈良時代の孝謙上皇は道鏡との関係を諌められたことで淳仁天皇と不仲になり、
突然保良宮から平城京に帰り、五位以上の全員を平城宮の朝堂院に集めて
「・・・国家の大事と賞罰は、朕がする」と宣命を下し、後に称徳天皇として再即位した。

このことは嵯峨天皇にとってまさに青天の霹靂ともいうべき出来事であったが、ひとまず
上皇の命に従うとして、坂上田村麻呂藤原冬嗣紀田上らを造宮使に任じた。

9月10日、遷都のことに縁りて、人心が大いに動揺したので、嵯峨天皇は使者を遣して
伊勢近江美濃の三国とを固めさせた。
三関と都の位置関係図 

同時に参議藤原仲成を捕らえて右兵衛府に監禁し、宮中の警備を厳重にした。
その上で、詔を発して尚侍薬子の官位を剥奪し、参議藤原仲成を佐渡権守に左遷した。
同じく参議藤原真夏北家)は伊豆権守に、多入鹿は讃岐守に左遷された。

多氏:日本最古の皇別氏族、神武天皇の皇子・神八井耳命の後裔とされる
多入鹿系図 

9月11日、藤原真夏北家)や文室綿麻呂らが平城京から召還されたが、綿麻呂は
上皇派と見なされ左衛士府に拘禁された。
また大外記上毛野穎人が平城宮から馳せ来たって、「太上天皇今日の早朝川口道
取って東国に入れり。凡そ其の諸司并びに宿衞之兵悉く皆從いぬ」という内容の、
平城上皇の動静を天皇に密告した。

天皇は大納言坂上田村麻呂らを遣して、「軽鋭卒」を率いて美濃道を固めさせ、
東国に入ろうとする上皇の軍を迎え撃たせることにした。
出発に当たって田村麻呂は、天皇に対して拘禁中の文室綿麻呂の起用を申し出た。
天皇はそれを入れて、正四位を授け、特に参議に任じて田村麻呂に同行させた。
綿麻呂は武芸の人で、延暦年間にしばしば蝦夷征伐に出陣していた。

他方、朝廷は宇治・山崎の両橋と与渡(淀)津に屯兵を配置して、平安京南部の防備を固めた。
その夜、朝廷は官人を遣わして、仲成を禁処において射殺させた。

一方、嵯峨天皇が詔を発して薬子の位官を奪い、仲成を左遷したことを知った上皇は、
激怒のあまり、みずから東国に赴き、大兵を集結して朝廷に反撃しようとした。
中納言藤原葛野麻呂北家)・左馬頭藤原真雄北家)らは上皇に対して東国入りを
思い止まるように諫めた。
しかし上皇は、薬子とともに駕に乗じて平城京から発進した。

9月12日、平城上皇と薬子の一行は大和国添上郡越田村まで来たが、朝廷の兵に
前途を遮られたことを聞き、為すところを知らず、やむなく平城宮に引き返した。
平城上皇は頭をまるめて出家し、薬子は毒を仰いで自殺した。

越田村 

9月13日、嵯峨天皇は詔を下して、事件の関係者らに寛大な措置をとる旨を明らかにした。

【日本後紀・卷第二十】:
「・・・太上天皇ヲ伊勢爾二行幸セシメタル諸人等、法之隨二罪賜フベク有トモ、
所念有二依テナモ、免賜ヒ宥賜フ。
又、中納言藤原朝臣葛野麻呂ハ、悪行之首藤原薬子ガ姻媾之中ナレバ、重罪有ベシ。
然多入鹿等申ク、雖言不納トモ、諫争コト懇至ト申二依テナモ、罪ナヘ賜ヒ勘賜ハス。
又、藤原朝臣真雄ハ、身命ヲ棄忘テ諫争タル事、衆人ヨリ異二有二依テナモ、譽賜ヒ勤賜ヒ、
冠位上賜ヒ治賜ハクト宣。・・・」

嵯峨天皇は、上皇の王権への反逆の罪を追及しなかたとは言え、上皇の皇子高岳親王から
皇太子の地位を奪った。
その後釜には異母弟の中務卿三品大伴親王(のち淳和天皇)が据えられた。

9月19日、年号を「弘仁」と改めた。

平城法皇は変の後も、「太上天皇」の称号はそのままとされ、朝覲を受けるなどの名誉ある
待遇と相当の宮廷費を受けた。
淳和即位のあくる年の弘仁15(824)年7月7日、平城上皇は奈良の旧京で寂しく崩じた。
享年49歳。

藤原真夏系図:山城国宇治郡日野を伝領地として日野家流とも呼ばれる。
藤原真夏系図    



日本の歴史      日立市川尻町-漢方整体院

種継暗殺事件

桓武天皇は即位後数年の間は初政の指導に忙しく、新都の造営など念頭に無かった。
ところが、本腰を入れて征夷の事業に取り掛かるや、それに刺激されて遷都の問題が
にわかに心を捉えるようになった。
桓武天皇には、征夷と遷都はいずれも帝王の誇るべき大業として受け取られた。

天平以来の争乱と頽廃の源、わけても堕落を極めた幾千の坊主の巣窟と化した平城京に、
桓武は何の未練も持たなかった。
この地にはまた、井上皇后の亡霊が揺曳している。

天皇の新都の企てを強力にバックアップしたのは、藤原百川の甥の種継であった。
百川の遺子緒継はまだ年少で、天皇の式家に寄せる恩寵は、ここの所種継に集中した。
種継もまた百川の如く機略に富み、その上行動力に秀でた人物であった。

延暦元(782)年3月に、参議に任ぜられて公卿に列すと、6月に正四位下;
延暦2(783)年4月に従三位、同年7月には式部卿兼近江按察使に任ぜられた。
延暦3(784)年正月には正三位藤原小黒麻呂北家)とともに中納言に叙任され、
更に同年12月には先任の中納言・大伴家持を出し抜いて正三位となった。

太政官-延暦1~5年 

先任の従三位中納言大伴家持は、春宮大夫を兼任のまま、延暦3(784)年2月には
持節征東大使に任ぜられ、陸奥に赴任していた。家門の復興を忘れなかった家持は、
その晩年の望みを早良親王の明日にかけていたに相違ない。

早良親王は立太子されるまで、親王禅師と呼ばれ、南都寺院に強い影響力を持っていた。
立太子されてからも南都寺院と深い関わりを持っていたという。

この皇太子と種継はもともと不和であったとされている。
【日本後紀】卷第二十・弘仁元年九月十日条には
「続日本紀所載の崇道天皇與贈太政大臣藤原朝臣不好之事、皆悉破却賜てし、
而更依人言て、破却之事如本記成。此も亦无禮之事なり、今如前改正之状」とあり、
不和であった事を記す【続紀】の記事は、早良親王の名誉回復時に削除され、
平城天皇の時代に復活されたが、薬子の変に際して再度削除されたという。

当時平城京は人口10万人を抱えており、陸路交通が限界となり、新たな水路交通網を
確立させる必要があった。
平城京の唯一の外港は山背国の(木津川に設けられた)泉津であった。
泉津の範囲はなお詳細不明だが、恭仁京は右京域に(既存の)泉津を組み入れたという。
大和盆地への水運は泉津が全面的に担っており、木津川は水運の大動脈であった。

種継は天皇に対して新京の地として山背国乙訓郡長岡村をすすめた。
乙訓地域は、古くから水陸交通の至便な地で、特に水運として桂川、小畑川、小泉川が
都の中を貫流し、中心部の宮域付近まで船により物資運搬が可能であった。

また、水路による港も葛野井津、山崎津、筑紫津、淀津、宇治津などがあり、
丹波国など北からの荷は葛野井津;近江などの東からや大和など南からの荷は淀津;
瀬戸内海沿岸の国々など西からの荷は筑紫津や山崎津へと水路で輸送し、
そこから更に陸路・水路で都へ運ぶことが出来る。

長岡京周辺の水陸交通網 

また、山背に力を扶植してきた帰化人の秦氏の本拠地葛野郡に近いことから、
秦氏の協力のことも検討されたに違い無い。種継の母は秦氏であった。
桓武天皇の母も帰化人の高野氏であり、この君臣は母系或は閨閥において
帰化人(特に百済王氏東漢氏)に繋がるところがあり、彼らの動静によく通じていた。

延暦3(784)年5月16日、天皇は勅を発して、既に内定した新京の地たる長岡を視察させた。
その任を受けて現地に赴いたのは、
藤原小黒麻呂:中納言
藤原種継:中納言
佐伯今毛人:左大弁
紀船守:参議・近衛中将
大中臣子老:参議・神祇伯
坂上苅田麻呂:右衛士督
佐伯久良麻呂:衛門督
船田口:陰陽助(系詳ならず、主税大属・船今道の一族と思われる)。

6月10日、種継・今毛人・船守らが造長岡宮使に任命され、造営事業がいよいよ本格化した。

6月13日、天皇は格(法令)を諸国に下し、この年の調・庸と、「宮を造る工夫の用度の物」を
長岡に進納させた。
同じ日、参議紀船守は勅使として賀茂社に赴き、長岡遷都を報告して神助を乞うた。

6月23日、新京に邸宅を造らせるために右大臣・藤原是公南家)から参議までの
太政官執政部と内親王・夫人らに諸国の正税6万束を給した。
6月28日、百姓の私宅が新宮の敷地に取り入れられた57町の分に対し、山背国の
正税4万3千余束をその主に与え移転を急がせた。

7月4日、阿波・讃岐・伊予の三国に仰せて、山崎の橋の料材を進むしむ。

11月11日、造営が進む中、天皇は平城京から長岡京に移った。
遷都を急いだのは、敵対勢力の妨害をできるだけ避けようとする意図があったという。
古代の遷都では、旧都を解体して移築するのを常としたが、長岡遷都の場合は
平城京ではなく、難波宮を解体し移築した。
長岡造都を全面的に種継に委ねたのも、遷都への批判をそらす意図があったという。
【続紀】には「天皇甚だこれ(種継)を委任し、中外の事皆決を取る」とある。
長岡京の造営で、桓武天皇は一度も工事現場に足を運 んだ形跡がない。
次の平安造都では40回近くも現場に赴 き、工事を督励 している。

12月18日、長岡宮の宮城を築いた功により、外正八位下秦足長は従五位上を授けられた。

延暦4(785)年1月1日、長岡宮の大極殿で朝賀の儀式が行われた。

5月19日、参議兼皇后宮太夫の佐伯今毛人が、赤雀一隻が皇后宮に飛来したことを報告。

6月10日、天皇は皇后宮に赤雀が飛来したことを祥瑞とみなし、詔を下して
広く有位の人々に恩典を施した。

8月23日、太政官院の垣を築いた功により、従七位上大秦公宅守は従五位下を授けられた。

8月24日、朝原内親王の伊勢下向を見送るため、天皇は平城宮に行幸した。
皇太子早良親王・右大臣藤原是公・大納言藤原種継らが留守を命ぜられた。

8月28日、中納言従三位大伴家持が任地で死去した。享年67歳。

9月23日の夜、亥の刻(夜10時ころ)に種継は何者かに射られ、両箭が身をつらぬいた。

9月24日、凶報に接した天皇は急ぎ平城をたって新都に帰って来たが、既に寵臣は息を
引き取っていた。時に種継49歳であった。

朝廷は直ちに犯人の捜査にのりだし、大伴継人ら数十名の者を容疑者として逮捕した。
大伴・佐伯両氏の官人が暗殺団の張本人で、しかも春宮職に務めている者が数名いた。

首謀者の左少弁大伴継人らは勅使に対して、
「故中納言大伴家持相謀りて曰く、よろしく大伴佐伯両氏に唱え、以て種継を除くべし。
因りて皇太子に啓して、遂にその事を行なう」と述べた。

取調べの末、大伴継人ら十数名が斬首となり、事件の25日前に死去した大伴家持
首謀者として除名(官位勲等を全部剥奪して平民とする)の処罰を受けた。
事件に連座して五百枝王藤原雄依紀白麻呂大伴永主らが流罪となった。
大伴家持系図 

9月28日、はついに皇太子早良親王に及び、戌の刻(午後8時ころ)に、親王は身柄を
春宮から乙訓寺に移された。
親王は自ら飲食を断ち無罪を訴えるが、十余日後に淡路国へ移送時に、淀川の高瀬橋
付近で絶命した。享年35歳。

11月25日、安殿親王(12歳)が新たに皇太子に立てられた。

都の造営は継続して進め られ、延暦5(786)年7月19日には、太政官院が完成した。

延暦8(789)年2月27日、天皇は西宮(第一次内裏)から、東宮(第二次内裏)に移った。

延暦10(791)年9月16、越前・丹波・但馬・播磨・美作・備前・阿波・伊予などの国々が
担当して、平城旧宮の諸門を壊して長岡京に運んだ。
これが造都に取り掛かってからまる7年後の状況であった。

長岡京への遷都は「水陸便有りて、都を長岡に建つ」とあるように,水陸の便を
求めてであった。
しかし利便性をもたらした河川は、大雨によってたびたび氾濫し、大きな災害をもたらした。
特に左京区は桂川に接しており,その脅威は大きかった。字治川木津川からの出水も
合わせ巨椋池の水位が上昇したら、左京区は著しい脅威を受ける。

長岡京内の河川 

淀川・大和川下流部は、両川より排出される土砂の堆積で、水害が多発していた。このため
三国川への疏通、大和川の開削工事が摂津大夫・和気清麻呂を中心に進められた。

延暦4年の三国川開削には成功したが、延暦7年に着手した大和川開削は上町台地を
突っ切るので木工事量が膨大で、のべ23万人を動員したが費用が嵩んで失敗している。

淀川河口 

【後紀】延暦18(799)年2月21日条の和気清麻呂の薨伝には
「長岡新都、経十載未成功、費不可勝計。清麻呂潜奏、令上託遊猟相葛野地、更遷上都。
清麻呂為摂津大夫、鑿河内川、直通西海、擬除水害。所費巨多、功遂不成」とある。
「清麻呂は密かに上奏し、遊猟にでかけることを口実に、天皇に葛野の地を視察させた」とある。

延暦11(792)年1月20日、天皇は好みの遊猟にことよせてしたしく葛野の地を視察した。

5月16日、天皇は葛野の地に行幸し、そこにある右大臣藤原継縄の別荘をも訪ねた。

6月22日、激しい雷雨により小畑川が氾濫し、式部省の南門が倒壊した。

8月9日、大雨により洪水で桂川が氾濫し、2日後には天皇自ら桂川畔赤目崎に行き
被害状況を視察した。
この水害が如何に凄まじく、甚大な被害をもたらしたかをうかがわせる。

自然災害の猛威は、桓武天皇に長岡京造営を断念さた。
延暦12(793)年1月15日、天皇は大納言藤原小黒麻呂北家)・左大弁紀古佐美らを
派遣して新京の地・山背国葛野郡宇太村を視察させた。

1月21日、長岡宮を解体するため、東院(第三次内裏)に移った。

造宮太夫は、初めは藤原小黒麻呂北家であったが、のちに和気清麻呂にかわり、
造宮亮は菅野真道であった。

3月1日、天皇は多数の臣僚を従えて葛野の地を視察した。

3月7日、新京の宮城の内に取り込まれる百姓地四十四町に対して、3ヵ年の価直を
給することにした。これ以後、造京第一年は土木工事が大急ぎで進められた。
その間に、天皇は督励を兼ねて幾度(40回近く)も新京つくりの現場を視察している。

9月末、朝廷は幣帛を諸国の由緒ある神社に捧げ、遷都と蝦夷征伐の幸先を
全国土の神々に祈願した。

10月22日、桓武天皇は皇太子以下公卿百官人をえて、葛野郡の新京に入った。

11月8日、桓武天皇は詔を出して、平城京の「山背国」は「山城国」に改め、
新都には唐めかして「平安京」の名称を与えた。
同じ日、旧都大津宮の名称を重んじ「古津」の名を「大津」に改めた。

平安京は長岡京と同様に水陸の便がよく、水陸路とも完成された四通八達の都であった。
特に水路は北や東からは大津・宇治津;南や西からは淀津・山崎津;西北方の丹波からは
大井津(葛野井津)というように、四方にそれぞれに機能分担した外港が設けられていた。

大津は更に琵琶湖北岸を経由して日本海に出るという重要な利点を持っていた。
【書記】仲哀天皇2年3月15日条には、
「即日使遣角鹿、勅皇后曰:便従其津発之、逢於穴門」とあり、
神功皇后が九州に赴く時、角鹿(敦賀)から日本海を西航したと記されている。

敦賀津は、古くから日本海中部以西はもとより、遠く朝鮮・中国へも繋がる要港であった。
日本海との連絡について見れば、長岡京より平安京の位置が更に有利である。

琵琶湖の水運ルート 

【延喜式】・卷第廿六の諸国運漕雑物功賃条によると、
越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡など北陸地方からの荷物は、敦賀へ海路輸送され、
そこから塩津へ陸送され、塩津からは船で大津へと渡り、陸路で京都へ運ばれている。
また、若狭国からの荷物は勝野津まで陸送され、そこから船で大津へ運ばれている。

大津は琵琶湖を経て京都へ至る物資輸送の中継地として、江戸時代の初めに西廻り
航路が開発されるまで、幕府及び北陸・東北諸国の倉庫が立ち並び賑わっていたという。



               日本の歴史

氷上川継事件

光仁朝は、施政10年にして、ようやく「官を省き役を息める」という思い切った政策を
打ち出して道鏡時代の悪政からの脱却を示し始めた。
その間に、藤原良継藤原百川といった、光仁父子を帝王の座に押し上げるのに機略を
働かせた政客が世を去った。
ここに至って、天皇は誰はばかることなく、人材を太政官に起用できるようになった。

宝亀11(780)年2月1日、太政官のスタッフには長く中枢部から疎外されていた古代の
名士石川名足、万葉末期の歌人でもある大伴家持が加えられ、光仁の外戚関係の
紀広純も抜擢され

右大臣正二位大中臣清麻呂宝亀2(771)年3月13日~
内大臣従二位藤原魚名(北家宝亀10(779)年)1月1日~
大納言従三位石上宅嗣宝亀11(780)年2月1日~
中納言従三位藤原田麻呂式家〃 〃 〃
従三位藤原継縄(南家)〃 〃 〃
参 議従三位藤原浜成(京家宝亀3(772)年4月20日~
従三位藤原是公南家宝亀5(774)年5月5日~
正四位上藤原家依(北家)宝亀8(777)年10月13日~
正四位下大伴伯麻呂宝亀9(778)年1月9日~
従四位上藤原乙縄南家宝亀10(779)年9月13日~
従四位下藤原小黒麻呂(北家)宝亀10(779)年12月30日~
正四位下大伴家持宝亀11(780)年2月1日~
従四位下石川名足〃 〃 〃
従四位下紀広純〃 〃 〃

3月16日にはにあたる正四位下神王を参議に加え、いよいよ王権の独自性を強め始めた。
藤原南家略図 1-2 

その矢先の3月22日、陸奥国から急使が東北辺境での由々しき異変を朝廷にもたらした。
蝦夷の住地に接する伊治(栗原)郡の大領・伊治公呰麻呂が、伊治城で参議で陸奥按察使兼
鎮守府副将軍の紀広純を殺害し、更に多賀城を攻略したというのである。

「官を省き役を息める」という民政改革に手を下したばかりなので、老天皇は内治と征討の
両面に精励したが、気力尽き果てて、反乱後1年にして病を理由に位を皇太子に譲った。

天応元年(781)年4月3日、父の譲位を受けて山部親王が即位し、桓武天皇となった。
皇太子には同母弟の早良親王をたてた。
光仁天皇は、同年12月23日に崩御した(享年73歳)。

天応2(782)年閏正月10日、大和乙人という者が密に武器を帯びて宮中に闖入したが、
発覚されて捕らえられる事件が起きた。
乙人は官の訊問を受けて、その主人・氷上川継を首謀者とする謀反の計画を自白した。
証言によると、川継は一味を集めて北門から皇居に押し入り、朝廷を倒そうと企んでいた
というものであった。
翌11日、川継を召喚する勅使が派遣された。川継はこれに気づき姿をくらまそうとしたが、
14日に大和国葛上郡に潜伏しているところを捕らえられた。

父母ともに天武系、わけても生母が聖武天皇の娘であるという関係からすれば、
川継は、光仁・桓武の父子王朝の成立に強い不満を持っていたであろう。
おのれこそが正統の皇位継承者だと自負していたかもしれない。

川継の罪は死罪に値するところ、光仁天皇の喪中であるという理由で、
罪一等を減じられて妻・法壱とともに伊豆国三島(田方郡)に流された。
母の不破内親王は娘たちとともに淡路国へ流された。
さらに法壱の父である参議藤原浜成も連座して参議を解任された。
藤原京家略図1-2 

浜成は延暦9(790)年の死没まで太宰員外師に据え置かれ、ついに中央政界に復帰する
ことができなかった。藤原諸流の中の京家ははやくも没落した。

また、三方王(系詳ならず、舎人親王の孫か)・山上船主(系詳ならず、山上憶良の子か)・
参議大伴家持・右衛士督坂上苅田麻呂らがそれぞれ刑罰を受けた。

間もなく家持・苅田麻呂は、嫌疑がはれたのか、同年5月には元の地位に復している。
しかし、三方王、その妻弓削女王(父は三原王、祖父は舎人親王)、山上船主は、
天皇を呪詛したとして船主は隠岐に、三方は妻の弓削女王とともに日向に流された。

同年6月には太政官の首席を占めていた左大臣兼太宰帥藤原魚名が罷免され、
累は三人の息子にも及んだ。藤原魚名はその翌年にこの世を去った。
藤原北家-3  

川継は配所で20年以上過ごした後、延暦24(805)年3月に赦免され、翌年には従五位下に
復した。弘仁3(812)年には、伊豆守として再び伊豆国へ赴任することになる。


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Author:愛犬・りく君
茨城県日立市十王町で
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