大宝律令

大宝元(701)年3月21日:藤原宮の朝堂院で、律令公布の式典が盛大に挙行された。
翌4月7日から、官人達に対する新令の講義が始まり、官人は三つの組に分けられた。
第一の組:天智・天武両天皇の皇子を主とする諸親王。
第二の組:皇族・貴族一般。
第三の組:六位以下の下級官人。
鍛大角下毛野古麻呂道首名らが講義に派遣された。
【続紀】には「親王・諸臣・百官人ら、就きてこれを習う」とある。

大宝律令は刑部親王(総裁)と藤原不比等(副総裁)を中心に19人によって編纂された。
刑部親王武天皇の皇子で、忍壁皇子、忍坂部皇子とも記される。

藤原不比等鎌足の次男、当時中納言で42歳。
 大宝元(701)年、文武の嫡皇子・首皇子と光明子生まれた。

粟田真人:民部尚書、律令の民部卿にあたる。
 【旧唐書】には「好く経史を読み、属文を解す。容止温雅なり」とある。
 粟田氏は和珥氏・春日氏の後裔氏族で山背国に本拠を持つ一族

山城国の豪族 

下毛野古麻呂:大政官の右弁官局の官。
 下毛野氏は下野国の国造系豪族に由来する氏族。

伊吉連博徳:斉明5(659)年に第四次遣唐使に随行した経験のある官人。
 5年前(持統8年─694年)には、遣新羅副使に任命された。
 壱伎氏(伊岐氏)は、中国系渡来氏族。

伊余部連馬養:軽皇子(後の文武天皇)の皇太子士。
 伊与部氏は尾張氏の一族で、天火明命の流れを汲む少神積命の後裔とする。
 天火明命→天香山命→・・・→天戸目命→建斗米命→・・・→伊余部馬養→頴麻呂→

調老人:姓は美伎(忌寸)、中国系渡来氏族、当時は大学頭。
 伊余部馬養と共に10年ほど前の持統3年(689年)、【善言】という古今東西の歴史物語を
 題材にした美談集の編纂に従事したことがある。

薩弘格:唐人で、時は音博士。

土部甥:古来豪族・土師氏の一族、姓は宿禰、子孫は菅原氏を称した。
 学問の神様・菅原道真は土部甥の玄孫にあたる。
 天智朝から天武朝にかけて10余年も唐に留学し、天武13年に帰国。

白猪史骨:百済経渡来人氏族の出身で、は「宝然】とも書く。
 天智朝から天武朝にかけて10余年も唐に留学し、天武13年に帰国。
 (16代)辰斯王→辰孫王→5代略→白猪胆津→己津→宝然→葛井道麻呂→
 「史」は大和朝廷で文筆や記録を職とした官職名、のち姓となる。

黄文連備:民部省主税寮長官─主税頭。
 黄文氏は、高句麗系渡来人を祖にする氏族。
 氏は「黄書」とも書き、黄書大伴は同族と思われる。

田辺史百枝:当は大学博士。
 田辺氏は百済系渡来人を祖にする氏族、河内国安宿郡田辺発祥。
 一族に藤原不比等を養育した大隅、大宝律令の撰定に従事した首名らがいる。
 百枝と首名は大隅の息子か甥かであったと思われる。

鍛造大角:当は大学博士、名は「大隅」とも書く。
 神亀5(728)年、守部連の氏姓を与えられた。
 天火明命→天香山命→・・・→天忍男命→瀛津世襲命→・・・→守部大隅→諸足→

道君首名:19名のうち、一律令を専修していたとされる、系図は不明。
 和銅6(713)年、筑後守に任ぜられ、肥後守も兼任した。
 道氏は北陸地方の豪族で、大彦命の孫・屋主田心命の後裔とし阿倍氏の一族を称した。
 天智天皇の夫人・道君伊羅都売は同族と思われる。

坂合部唐:古来豪族、は宿禰、氏は「境部」とも書く、系図は不明。
 阿倍朝臣と同祖、大彦命の後と称する。以下は同族と思われる。
 坂合部石積:第2回遣唐使(白雉4/653~白雉5)年、留学生として唐に渡る。
       第5回遣唐使(天智4/665年~天智6年)に随行。名は磐積とも書く。
 坂合部石布:第4回遣唐使(斉明5/659年~斉明7年)大使。名は「石敷、磐鍬」とも書く。
 坂合部稲積:第4回遣唐使に随行。
 坂合部大分:第8回遣唐使(大宝2/702年~慶雲元年)、副使。 

狭井尺麻呂石上朝臣祖、神饒速日命の後裔、系図は不明。
 姓は宿禰、氏は「佐為」とも記される。
 同族・狭井連麻呂の娘(米頭羅古娘)は中臣可多能祜嫁し糠手子を産んだという。

額田林:額田部連氏は天津日子根命の子孫とする。系図は不明。
 天津日子根命→天戸間見命→・・・→額田部連氏→

田辺史首名田辺百枝の一族、系図不明。

山口大麻呂東漢氏の一支族で、は伊美伎(忌寸)。
 後に養老5(721)年、皇太子の教育係の一人・山口田主は一族。

宝律令官制
大宝令官制  

畿七道図
五畿七道図


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大津皇子の変

天武10(681)年2月、草壁皇子(20歳)が太子に立てられた。
皇后所生の長子に位をゆずるのがなんといっても順当である。
草壁皇子の性格や才能については史料がほとんどなくよくてわからないが、
一つ年下の大津皇子ほうが才能・人望共に草壁を越えていたようだ。
大田皇女は皇后の姉にあたり、大津皇子がまだ5歳頃の時に死んだ。
天武天皇-2   
「懐風藻」にある大津皇子の伝には
「状貌魁梧、器宇峻遠、幼年にして学を好み、博覧にしてよく文を属す。
壮なるにおよびて武を愛し、多力にしてよく剣を撃つ」とある。
凛々しい上に学問に優れ、また武を愛して剣を得意とした、というのである
「書紀」にもおなじ趣旨の讃辞が述べられており、
「詩賦の興るは大津より始まれり」とまでいっている。
かなりの人物と認められていたようである。

鸕野皇女にとっては枕を高くして寝れない存在であった。
夫の天武は自ら反乱を起して、異母弟の大友皇子を倒して政権を握ったのではないか。
草壁の即位を実現させるためには、もっとも障害になるものを取り除くほかない。
皇后は壬申の乱にも天武天皇と行動をともにして苦楽をわかちあっており、
父天智天皇の血をうけて生まれながらに政治家の素質を備えていたようである。

天武14(685)年9月、天武天皇は病いの床についた。
天武15(686)年に入ると天皇の病気は一時回復したが、5月から再び病いにふした。
7月15日、天皇は詔して、
「天下の事は大小を問わず、悉く皇后及び皇太子に啓せ」といった。
同じ月、年号を朱鳥と改めた。
朱鳥元年9月9日、天武天皇は飛鳥浄御原宮の正殿で病没した。

天皇の死の前後、大津皇子は姉の大伯皇女に会いに「竊かに伊勢の神宮に下った」とされる。
大伯皇女は天武3(674)年以来、12年間斎宮(初代)として伊勢にいる。
天皇の危篤や死という大事な時に、皇太子に次ぐ身分の人が、都を出て、
しかも反乱の策源地となることの多い東国に行くことは、理由のいかんを問わず
普通には許されないことである。
それを敢えて犯したのであるから、この時に大津皇子は何らかの重大な決意を
心に秘めていたと思われる。
その決意が何であったか、今になっては知るすべがない。

壬申の乱の時、伊勢神宮は天武側について、加護した。
「行く鳥の 争ふはしに 渡会の斎宮ゆ 神風に 伊吹きまどはし」

天皇の死後わずか1ヶ月も経たない10月2日、「書記」によれば、
にわかに大津皇子の謀反が発覚し、皇子と八口朝臣音橿壱伎連博徳
大舎人中臣朝臣清麻呂巨勢朝臣多益須及び新羅の沙門行心(幸甚)、
帳内礪杵道作ら30余人が捕らえられた。
翌3日、早くも皇子は訳語田(磐余の付近)で死刑に処せられた。享年24歳。
なお、逮捕のきっかけを作った告白者は、大津皇子の親友であった川島皇子であったという。

まもなく大伯皇女が伊勢神宮より都へ召し返されたが、すでに万事は終わっていた。
二上山の雄岳山頂から、少しだけ雌岳側へ下ったところに皇子の墓がある。
大津皇子墓
なお、共謀者として逮捕された30余人の内、道作と行心以外はすべて赦免された。

持統2(688)年11月11日、長い殯宮の儀が終わり、天武天皇が大内陵に葬られた。
持統3(689)年2月には、竹田王土師宿禰根麻呂など9人が判事に起用された。
その多くは少壮の貴族達で、若い草壁皇子が政治を始める準備かと思われる。
中臣朝臣麻呂巨勢多益須藤原不比等らと共に判事に任ぜられた。

ところが皇太子は期待を裏切って4月13日に急逝した。28歳であった。
子の軽皇子(後の文武天皇)はわずか7歳で、皇位をつぐにはあまりに幼少である。

持統4(690)年正月、群臣列座のなかで、物部朝臣(石上)麻呂が大盾をたて、
中臣朝臣大島が寿詞を読み、忌部宿禰色夫知がしるしの剣と鏡とを献じて、
皇后は正式に天皇となった、持統天皇である。
高市皇子が太政大臣、丹比真人嶋が右大臣に任ぜられた。


注:
八口朝臣音橿:蘇我氏の同族、(稲目宿禰の後なり)。

壱伎連博徳:中国系渡来氏族で、姓は伊岐、壱伎、名は博得とも。
 斉明朝から天智朝にかけての豪族・外交官。
 斉明5年~斉明7年(661年)にかけて、第四次遣唐使に随行した。

新羅沙門行心(幸甚):「天文・卜筮」に長け、「骨法」をよくしたと いう。
 大津皇子の変に連座し、飛田の寺院に流された。
 子の僧隆観は大宝2(702)年に赦免され、入京(藤原京)している。
 行心はおそらく飛田の地で没したと思われる。

礪杵道作:大津皇子の帳内で、美濃の礪杵(土岐)郡の豪族出身と思われる。
 大津皇子の変に連座し、伊豆(下田市大字箕作)に流された。
 道作は伊豆の国へ流罪を受けた最初の人だという。
 赦免を得られずこの地に没したという。

磐余:香具山を含む、飛鳥時代以前の古代宮都の
 天降りつく天の香具山は、大和の国魂の宿る聖地である。
 太陽が昇る東の三輪山、夕日が沈む西の二上山も神の宿る聖地であるが、
 神話・伝説の上では香具山に及ばない。



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壬申の乱

天智7(668)年正月、中大兄皇子(43歳)は大津宮で即位した。
皇后には異母兄・古人大兄皇子の娘である倭姫王を立てた。
皇后には子がなく、嬪とよばれる中央有力豪族出身の四人のきさき達には女子が多く
生まれ、ただ一人の男子である建皇子は斉明4(658)年に八歳で病死した。
中流以下の豪族出身のきさき(宮人)からは三人の皇子が生まれている。
天智天皇 
しかし中流以下の豪族出身のきさきを母とする皇子が皇位をつぐことは、応神天皇以前の
伝説の時代を除くならば、かつて例がない。
「書記」には天智天皇即位の元年に大海人皇子は「立てて東宮と為す」とある。
天皇に有力な弟がある場合、子供より先に弟に皇位を相続させるのが当時の慣例である。

大海人皇子は、鸕野皇女との間に草壁皇子、太田皇女との間に大津皇子をもうけている。
大海人皇子が皇位につけば、天智系の皇子に皇位がまわって来る可能性はますます薄くなる。

それでも、大友皇子が皇位を託するにたりない凡庸の人物であるならば、天智天皇は
皇位をそのまま大海人皇子に譲ったかも知れない。
しかし大友皇子もひとかどの才能ある人物であったらしい。
この大友皇子が、天智天皇即位の年にすでに21歳である。
天智天皇の意が動かざるのえない。

天智10(671)年正月二日、天智天皇は大友皇子を大政大臣に任命し、同時に
蘇我臣赤兄を左大臣、中臣連金を右大臣、蘇我臣果安巨勢臣人紀臣大人
三人を御史大夫とした。
天智天皇はこの内閣改造によって、かなり露骨に大友皇子を自分の後継者とする意思を
示し、暗に大海人皇子の引退を求めたのである。
やがてはこうした状態の来ることを、大海人皇子は覚悟していただろう。

天智10(671)年8月、天皇は病床につき、九月になっても治らなかった。
10月17日、天智天皇はついに意を決して大海人皇子を病床に招いた。
「わたくしの病気は重い。おまえに後を譲ろう」
意外な兄の言葉に、さすがの大海人皇子も一瞬真意をはかりかねたが、きっぱりと答えた。
「いや、結構です。皇位は倭姫皇后にお譲りください。政治のことは大友皇子に任せるのが
よろしい。わたくしは天皇のおんために出家して修行します」。
うっかり皇位に執着をもつ気配を見せたならば、謀反の心を抱くというような罪名を
きせられて逮捕・処刑されるかも知れぬ、と考えたのである。
有間皇子古人皇子を倒した天智のやり方を身近に見ている大海人皇子が、この切迫した
時期にそう考えるのは当然であろう。

大海人皇子は天智の病床からすぐ内裏の仏殿に行って髪をおろし、僧侶となった。
即日、自家の兵器をことごとく官に納めて天皇に二心のないことを明らかにした。
なか一日おいて19日、わずかの従者を連れて大津京を去り、吉野に向かった。
翌20日に吉野についてやっと一息ついたが、まだ安全とは言えない。
大化改新のむかし、古人大兄皇子は同じように僧侶となって吉野に隠れたが、それでも
天智の疑いを解くことが出来ず、謀反の罪名のもとに攻め滅ぼされた。

しかし近江の朝廷は、吉野の皇子に対して行動を起こすだけの余裕はなかった。
なぜなら、その後も天智の病状が悪化の一途をたどったからである。

天智10(671)年12月3日、厳冬の大津宮で天智(46歳)は永い眠りについた。
大友皇子(25歳)が近江朝廷の新しい主人になり、きさきには十市皇女を立てた。
大友皇子 
672(壬申)年5月、吉野の大海人皇子のもとに衝撃を与える知らせが届いた。
近江朝廷が、天智天皇の山陵を山科に作るために、美濃・尾張の国司に命じて多数の
人夫を徴発し、これに武器を与えているという。
人夫に武器を持たせるとすぐ軍隊ができあがる。
その大部隊に攻撃されたならば、吉野の仮住まいはひとたまりもない。
坐して死を待つか、立って戦うか、大海人皇子は最後の決断を迫られた。

このころ、大伴一門の中心人物である大伴連馬来田・吹負の兄弟は、近江朝廷を去って
大和に帰った。大海人皇子の将来に望みを託したからである。

6月22日、大海人皇子は村国連男依ら美濃出身の舎人三名を挙兵の使者とした。
美濃国安八郡には大海人皇子の直領地である湯沐邑がある。
湯沐令や美濃の国司と連絡を取り兵を集め、美濃と近江を結ぶ不破道を塞ぐことを命じた。

6月24日、大海人皇子は残りの舎人20余人、女官10余人を率いて吉野を立った。
一行は昼夜兼行して、25日の朝はやく伊賀北部の積殖の山口に到着した。
ここで大津宮から駆けつけて来た高市皇子(当時19歳)に出会った。
高市皇子は父からの密使によって挙兵を知り、ひそかに手兵を率いて大津宮を
抜け出したのである。
壬申の乱 
伊勢国に入ると、鈴鹿の辺りで出迎えに駆けつけた三宅連石床や湯沐令らに行き合った。
二日前に出発した男依らは無事に使命をはたし、挙兵の第一段階はまず成功である。
大海人皇子はようやく愁眉を開くことができた。

26日には、やはり大津京から駆けつけた大津皇子(当時11歳)の一行に会い、昼前に
伊勢北部の朝明郡に到着した。
そこへ村国男依が駆けつけて、「予定通りに美濃の兵の動員が進行し、不破の道を占領した」
と報告した。
大海人皇子は使いを東海・東山両道に送って兵を集めるという挙兵計画の第二段階を
実行に移すとともに、高市皇子を不破に遣わして前線指揮官とし、自分は後方にあって
全軍の統轄にあたった。

大海人側の見事は進行ぶりに対し、近江側は行動に敏活を欠き、全てに先手をとらえた。
近江朝廷は大海人皇子の東国入りのことを、24日の夕刻か夜に知ったと思われる。
「書記」には
「近江の朝廷は太皇弟が東国に入ると聞いて、群臣はことごとく驚き、京内は震動した。
東国に遁れようとする者もあれば、山や沢に匿れようとする者もあった」と記している。
こんなことでは適切な対策がとれるはずがない。
「すぐに騎兵を派遣して追撃せよ」という者があったが、採用されず、諸国に募兵の使いを
出し、大兵力が集まったことろで攻撃を始めることになった。
しかし募兵は難航し、吉備や筑紫にまで使者を送ったが、吉備国守当麻公広島も、
筑紫太宰栗隈王も協力せず、当麻広島は使者に殺されるという騒ぎまで起こった。

形勢はこれより大海人皇子の有利に傾いて行くのである。
27日には、尾張国守小子部連鉏鈎が2万の大兵を率いて大海人皇子軍に投じた。

もう一つ近江側に大きな誤算があったのは、大和一国を奪われたことであった。
大伴吹負が大海人皇子の東国入りを知って兵を集め、大和の漢氏一族を連絡を取って、
6月29日に飛鳥京を急襲した。
そして近江側の守備隊を追い払い、更に進んで大和全域を支配下に入れた。
三輪氏鴨氏などの大和の豪族は大伴の軍に味方した。

7月2日、戦備の整った大海人皇子軍はいよいよ攻撃を開始した。
第一軍は紀臣阿閉麻呂らが将となり、大和の大伴吹負と連絡し、南から大津京を目指した。
第二軍は村国男依らが将となり、不破から近江に入り、東から大津京に向かった。
特に第二軍は近江側の兵と区別するために衣の上に赤い布をつけ、旗さしものにも
赤色を用いた。

近江路の戦いは大海人皇子方が一方的に優勢であった。
近江軍は犬上川のほとりの戦いに大敗した上に、内紛まで引き起こし、山部王
蘇我果安などが死んだ。
その後、一時近江軍が盛りかえした時もあったが、息長の横河(7月7日)戦いと
鳥籠山(7月9日)の戦いにも敗れた。
13日、安河のほとりでも近江軍は敗れ、大海人皇子の軍は瀬田川の橋に迫った。
瀬田川の戦い1 
22日、瀬田川の戦いが行われ、近江側は総力を振り絞って戦ったが、善戦むなしく、
この日のうちに大海人皇子軍が守りを突破した。
瀬田川の戦い2 
23日、大津京は陥落した。
「懐風藻」には「時に乱離を経て、悉く灰燼に従う」とある。
大友皇子(25歳)は山前の地にかくれ、みずから頸をくくって死んだ。
「於是、大友皇子、走無所入。乃還隱山前、以自縊焉。時、左右大臣及群臣、皆散亡。」
十市皇女は幼い葛野王を連れて難を逃れた。

挙兵以来満1ヶ月にして戦いは終わった。
大海人皇子は不破の本営において、更に一月を費やして戦後処理した。
右大臣中臣金は死刑、蘇我赤兄巨勢人は流刑、紀大人は赦免された。
蘇我・中臣・巨勢など、当時の有力豪族は近江朝廷とともに没落した。
これより前に、小子部連鉏鉤は山に隠れて自殺したが、真相は不明である。

9月8日、大海人皇子は大和へ向かって凱旋の途についた。
9月12日、大和の飛鳥の古京に帰り、新しく浄御原宮を造って年のうちに移った。

翌673年2月27日、大海人皇子は淨御原宮で即位し、天武天皇となる。
皇后には兄・天智天皇の娘である鵜野讃良皇女(持統天皇)を立てた。

村国連男依:美濃国各務郡の豪族
 壬申の乱で大海人皇子に属し、近江方面の将として功を立てた。
 村国連男依→志我麻呂→島主→

当麻公広島:聖徳太子のにあたると考えられる。
 当麻氏は用明天皇の当麻皇子の子孫にあたる皇族系の氏族である。



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有間皇子の変

白雉4(653)年4月、中大兄皇子孝徳天皇の反対を無視して、母の皇極上皇や弟の
大海人皇子をはじめ、公卿・大夫・百官を引き連れて、飛鳥川のほとりの川辺の行宮
稲淵宮?)に移った。
孝徳天皇の皇后である間人皇女までが天皇を棄てて中大兄皇子に従った。
天皇はときに位を去ろうかと思うほどであったが、果たさぬうちに、翌654年には病床にふす
身となり、この年10月10日に恨みを抱いたままこの世を去った。

一人息子の有間皇子はこの時15歳で、皇位継承の有力な候補者であったが、孝徳天皇が
中大兄皇子らに擁立された事情や、皇太子に中大兄皇子が立ったことを考えれば、
孝徳天皇の次に有間皇子が即位することはほとんど望みが無い。
ところが意外にも中大兄皇子は皇太子の地位にとどまり、天皇の位には皇極上皇が再び
ついて斉明天皇となった。
中大兄皇子が皇位につかなければ有間皇子に即位の可能性がうまれてくる。

斉明3(657)年、有間皇子は18歳になった。
自分が天皇になれたら、という考えが胸の中に高まって来たとしても不思議ではない。
「中大兄皇子を押しのけて自分が皇位につくことができたら、憤死同様の死にかたをした
父の仇を討つこともできる。父を見捨てた継母間人皇后に思いしらすこともできよう」。
中大兄皇子に対する憎しみは、なおいっそう強く彼の心を噛んだであろう。
といって、当代第一の権力者に対して18歳の孤独の皇子に何ができようか。

有間皇子は思い屈して、次第に暗欝な青年になって行ったようである。
「書記」には、「有間皇子、性黠し。陽り狂れて云云」とあり、
続けて「牟婁温湯に往きて、病を療むる偽す」とある。
牟婁温湯とは紀伊国牟婁郡にある温泉、今の白浜温泉の鄰の湯崎温泉である。

どのくらい滞在したかわからないが、まもなく皇子はよくなって都へ帰って来た。
そして紀伊国の様子を褒めて、
「纔かに彼の地を観るに、病いおのずから蠲消りぬ」といったという。

斉明4(658)年、有間皇子は19歳になった。
中大兄皇子がかつて蘇我氏打倒をクーデター計画を練り始めた年だ。
その時、中大兄皇子は中臣鎌足に勧められて立ち上がる決心をしたのだ。
有間皇子にも謀反を勧める者が現れるかも知れぬ。
それならば、先に手をまわして有間皇子を唆し、謀反の計画だけを立てさせておいて
打ち倒せばよいではないか。
大化元年に古人大兄皇子を倒したあの方法だ。

この年10月15日、斉明天皇は牟婁温湯に出かけ、中大兄皇子らも従った。
すこし前に8歳で亡くなった孫の建王のことが忘れられず、心を痛めていたが、
その保養も兼ねての湯治である。

いよいよ事件は天皇以下が留守になった飛鳥の都でおこる。
11月3日、留守官として飛鳥の都に残っていた蘇我臣赤兄が、有間皇子を訪ねて来た。
赤兄の用件は皇子に謀反を勧めることであった。
「天皇の政治には三つの失策があります。
第一に、大いに倉庫を起てて民の財を集積すること。
第二に、長い溝を掘って公糧を浪費すること。
第三に、舟に石を載せて運び、積んで丘とすること。この三つです」。
皇子は大いに喜んで、「この年になってはじめて兵を挙げるべき時が来た」と言った。
孤独な若い皇子は、天皇と皇太子の失策を非難する赤兄を信用して心を許した。
赤兄は留守官に任ぜるほど中大兄皇子の側近の有力者であった。

一日おいて11月5日、皇子は自ら赤兄の家に行き、謀反の密議に入った。
密談の最中に夾膝(ひじ掛け)の足が折れた。
不吉の前兆と感ぜられたので会議を中止し、盟を立てて別れた。

皇子が宿に帰った夜半、赤兄は宮をつくるための人夫を集め、物部朴井連鮪
率いさせて、皇子を家を囲み、一方、急使を牟婁温湯にある天皇のもとに走らせた。
有間皇子は赤兄の謀略に見事に引っ掛かったのである。
捕らえられた有間皇子は牟婁温湯に護送された。
「万葉集」に見える有間皇子の歌は、途中11月8日、磐代で一夜をあかした時の作である。
「磐代の浜松が枝を引きむすび真幸くあらばまた還り見む」。
「家にあらば笥に盛る飯を草まくら旅にしあれば椎の葉に盛る」。

有間皇子は皇太子の温情を期待していたかも知れないが、太子の容赦ない訊問は
その希望を微塵に砕いた。
中大兄皇子が「何ゆえに謀反を企てたか」と問うのに対し、有間皇子は「天と赤兄と知る。
吾は全ら解らず」と答えたと「書記」にある。

有間皇子は11月11日に藤白坂(和歌山県海草郡)で絞首された。
中大兄皇子の鮮やかな手なみであった。
牟婁温湯   
和歌山県海南市・藤白神社の境内には有間皇子をまつる神社があり、
藤白坂には皇子のお墓がある。
有間皇子の墓



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物部守屋の変

587(用明2)年4月、用明天皇逝去した。
  皇太子には押坂彦人皇子が立っていたが、病弱で、この頃すでに病床にあった。
  物部守屋穴穂部皇子を擁して皇位を争うことを謀った。
  蘇我馬子は穴穂部皇子の同母弟・泊瀬部皇子を担ぎ出した。
587年6月、馬子は炊屋姫に取り入り、詔を出してもらい、穴穂部皇子を殺した。
587年7月、蘇我馬子は群臣と謀り、物部守屋追討軍の派遣を決定した。
  主力軍:蘇我氏を中心とし、諸皇子や紀・巨勢・膳・葛城の諸氏からなる。
  第二軍:大伴・阿倍・平群・坂本・春日の諸氏からなる。
物部合戦図  
物部氏の本拠地は河内国渋川郡であり、守屋の別邸は阿都(八尾市)にあった。
飛鳥時代、摂津・河内方面と大和とを繋ぐ主道路は逢坂越え又は穴虫峠越えてあった。
この主道路は大坂道(大坂越え)と呼ばれ、竹内街道より古い道路である。
難波津と斑鳩里を結ぶ大和川の北辺を通る竜田道は第二国道といったところであった。

奈良県 

主力軍は飛鳥で勢ぞろいをし、奈良盆地南部を西進し、二上山の北の逢坂(香芝市逢坂)
を越えて国分(柏原市国分)から船橋(旧大和川と石川が合流するあたりにあった町、柏原市
から藤井寺市にかけて広がる船橋遺跡)の方へ出るか、穴虫峠(香芝市大字穴虫)を越えて
古市(羽曳野市古市)へ出るかして、待ち構える物部軍に攻めかかった。
戦いの後、餌香川(石川)の川原に斬り殺された死体が数百あったというのは、船橋・古市
辺りに敷かれた守屋側の防衛第一線を馬子主力軍が強行突破した時の戦死者であろう。

第二軍は竜田道を越えて信貴山西麓の志紀郡(八尾市志紀町)の地に出て、横合いから
守屋の本拠に急襲をかけた。
守屋は不意をつかれ渋川の本宅を放棄して北方の衣摺(東大阪市衣摺)まで後退した。

守屋側の奮戦に馬子側もやや攻めあぐねが、やがって主力軍が到着すると、寄せ手の勢力
は倍増し、然しもの守屋もついに乱軍の間に矢に当たって戦死した。
総大将を失った物部軍勢は総崩れとなり四散した。

丁未の乱 

排仏派の物部守屋の没落により、蘇我氏の全盛期が始まる。
翌月(587年8月)、泊瀬部皇子が皇位につき、第32代・崇峻天皇となる。
物部氏の領地は両分され、半分は馬子のものになり、半分は四天王寺へ寄進された。

法興寺飛鳥寺):崇峻1(588)年から建て始められた。

四天王寺:推古天皇元(593)年)に造立が開始された。
 聖徳太子建立七大寺の一つとされる。

大坂道(大坂越え):大和から河内に至る古代の道。
「書紀」の崇神9年3月条に、大和の西の守護神として「大坂神」を祭ったとの記事がある。
香芝市穴虫と北東約600mに位置する逢坂のニヶ所に「大坂山口神社」が鎮座されている。
大坂山口神社 


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愛犬・りく君

Author:愛犬・りく君
茨城県日立市十王町で
漢方整体院を経営してます。

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