種継暗殺事件

桓武天皇は即位後数年の間は初政の指導に忙しく、新都の造営など念頭に無かった。
ところが、本腰を入れて征夷の事業に取り掛かるや、それに刺激されて遷都の問題が
にわかに心を捉えるようになった。
桓武天皇には、征夷と遷都はいずれも帝王の誇るべき大業として受け取られた。

天平以来の争乱と頽廃の源、わけても堕落を極めた幾千の坊主の巣窟と化した平城京に、
桓武は何の未練も持たなかった。
この地にはまた、井上皇后の亡霊が揺曳している。

天皇の新都の企てを強力にバックアップしたのは、藤原百川の甥の種継であった。
百川の遺子緒継はまだ年少で、天皇の式家に寄せる恩寵は、ここの所種継に集中した。
種継もまた百川の如く機略に富み、その上行動力に秀でた人物であった。

延暦元(782)年3月に、参議に任ぜられて公卿に列すと、6月に正四位下;
延暦2(783)年4月に従三位、同年7月には式部卿兼近江按察使に任ぜられた。
延暦3(784)年正月には正三位藤原小黒麻呂北家)とともに中納言に叙任され、
更に同年12月には先任の中納言・大伴家持を出し抜いて正三位となった。

太政官-延暦1~5年 

先任の従三位中納言大伴家持は、春宮大夫を兼任のまま、延暦3(784)年2月には
持節征東大使に任ぜられ、陸奥に赴任していた。家門の復興を忘れなかった家持は、
その晩年の望みを早良親王の明日にかけていたに相違ない。

早良親王は立太子されるまで、親王禅師と呼ばれ、南都寺院に強い影響力を持っていた。
立太子されてからも南都寺院と深い関わりを持っていたという。

この皇太子と種継はもともと不和であったとされている。
【日本後紀】卷第二十・弘仁元年九月十日条には
「続日本紀所載の崇道天皇與贈太政大臣藤原朝臣不好之事、皆悉破却賜てし、
而更依人言て、破却之事如本記成。此も亦无禮之事なり、今如前改正之状」とあり、
不和であった事を記す【続紀】の記事は、早良親王の名誉回復時に削除され、
平城天皇の時代に復活されたが、薬子の変に際して再度削除されたという。

当時平城京は人口10万人を抱えており、陸路交通が限界となり、新たな水路交通網を
確立させる必要があった。
平城京の唯一の外港は山背国の(木津川に設けられた)泉津であった。
泉津の範囲はなお詳細不明だが、恭仁京は右京域に(既存の)泉津を組み入れたという。
大和盆地への水運は泉津が全面的に担っており、木津川は水運の大動脈であった。

種継は天皇に対して新京の地として山背国乙訓郡長岡村をすすめた。
乙訓地域は、古くから水陸交通の至便な地で、特に水運として桂川、小畑川、小泉川が
都の中を貫流し、中心部の宮域付近まで船により物資運搬が可能であった。

また、水路による港も葛野井津、山崎津、筑紫津、淀津、宇治津などがあり、
丹波国など北からの荷は葛野井津;近江などの東からや大和など南からの荷は淀津;
瀬戸内海沿岸の国々など西からの荷は筑紫津や山崎津へと水路で輸送し、
そこから更に陸路・水路で都へ運ぶことが出来る。

長岡京周辺の水陸交通網 

また、山背に力を扶植してきた帰化人の秦氏の本拠地葛野郡に近いことから、
秦氏の協力のことも検討されたに違い無い。種継の母は秦氏であった。
桓武天皇の母も帰化人の高野氏であり、この君臣は母系或は閨閥において
帰化人(特に百済王氏東漢氏)に繋がるところがあり、彼らの動静によく通じていた。

延暦3(784)年5月16日、天皇は勅を発して、既に内定した新京の地たる長岡を視察させた。
その任を受けて現地に赴いたのは、
藤原小黒麻呂:中納言
藤原種継:中納言
佐伯今毛人:左大弁
紀船守:参議・近衛中将
大中臣子老:参議・神祇伯
坂上苅田麻呂:右衛士督
佐伯久良麻呂:衛門督
船田口:陰陽助(系詳ならず、主税大属・船今道の一族と思われる)。

6月10日、種継・今毛人・船守らが造長岡宮使に任命され、造営事業がいよいよ本格化した。

6月13日、天皇は格(法令)を諸国に下し、この年の調・庸と、「宮を造る工夫の用度の物」を
長岡に進納させた。
同じ日、参議紀船守は勅使として賀茂社に赴き、長岡遷都を報告して神助を乞うた。

6月23日、新京に邸宅を造らせるために右大臣・藤原是公南家)から参議までの
太政官執政部と内親王・夫人らに諸国の正税6万束を給した。
6月28日、百姓の私宅が新宮の敷地に取り入れられた57町の分に対し、山背国の
正税4万3千余束をその主に与え移転を急がせた。

7月4日、阿波・讃岐・伊予の三国に仰せて、山崎の橋の料材を進むしむ。

11月11日、造営が進む中、天皇は平城京から長岡京に移った。
遷都を急いだのは、敵対勢力の妨害をできるだけ避けようとする意図があったという。
古代の遷都では、旧都を解体して移築するのを常としたが、長岡遷都の場合は
平城京ではなく、難波宮を解体し移築した。
長岡造都を全面的に種継に委ねたのも、遷都への批判をそらす意図があったという。
【続紀】には「天皇甚だこれ(種継)を委任し、中外の事皆決を取る」とある。
長岡京の造営で、桓武天皇は一度も工事現場に足を運 んだ形跡がない。
次の平安造都では40回近くも現場に赴 き、工事を督励 している。

12月18日、長岡宮の宮城を築いた功により、外正八位下秦足長は従五位上を授けられた。

延暦4(785)年1月1日、長岡宮の大極殿で朝賀の儀式が行われた。

5月19日、参議兼皇后宮太夫の佐伯今毛人が、赤雀一隻が皇后宮に飛来したことを報告。

6月10日、天皇は皇后宮に赤雀が飛来したことを祥瑞とみなし、詔を下して
広く有位の人々に恩典を施した。

8月23日、太政官院の垣を築いた功により、従七位上大秦公宅守は従五位下を授けられた。

8月24日、朝原内親王の伊勢下向を見送るため、天皇は平城宮に行幸した。
皇太子早良親王・右大臣藤原是公・大納言藤原種継らが留守を命ぜられた。

8月28日、中納言従三位大伴家持が任地で死去した。享年67歳。

9月23日の夜、亥の刻(夜10時ころ)に種継は何者かに射られ、両箭が身をつらぬいた。

9月24日、凶報に接した天皇は急ぎ平城をたって新都に帰って来たが、既に寵臣は息を
引き取っていた。時に種継49歳であった。

朝廷は直ちに犯人の捜査にのりだし、大伴継人ら数十名の者を容疑者として逮捕した。
大伴・佐伯両氏の官人が暗殺団の張本人で、しかも春宮職に務めている者が数名いた。

首謀者の左少弁大伴継人らは勅使に対して、
「故中納言大伴家持相謀りて曰く、よろしく大伴佐伯両氏に唱え、以て種継を除くべし。
因りて皇太子に啓して、遂にその事を行なう」と述べた。

取調べの末、大伴継人ら十数名が斬首となり、事件の25日前に死去した大伴家持
首謀者として除名(官位勲等を全部剥奪して平民とする)の処罰を受けた。
事件に連座して五百枝王藤原雄依紀白麻呂大伴永主らが流罪となった。

9月28日、はついに皇太子早良親王に及び、戌の刻(午後8時ころ)に、親王は身柄を
春宮から乙訓寺に移された。
親王は自ら飲食を断ち無罪を訴えるが、十余日後に淡路国へ移送時に、淀川の高瀬橋
付近で絶命した。享年35歳。

11月25日、安殿親王(12歳)が新たに皇太子に立てられた。

都の造営は継続して進め られ、延暦5(786)年7月19日には、太政官院が完成した。

延暦8(789)年2月27日、天皇は西宮(第一次内裏)から、東宮(第二次内裏)に移った。

延暦10(791)年9月16、越前・丹波・但馬・播磨・美作・備前・阿波・伊予などの国々が
担当して、平城旧宮の諸門を壊して長岡京に運んだ。
これが造都に取り掛かってからまる7年後の状況であった。

長岡京への遷都は「水陸便有りて、都を長岡に建つ」とあるように,水陸の便を
求めてであった。
しかし利便性をもたらした河川は、大雨によってたびたび氾濫し、大きな災害をもたらした。
特に左京区は桂川に接しており,その脅威は大きかった。字治川木津川からの出水も
合わせ巨椋池の水位が上昇したら、左京区は著しい脅威を受ける。

長岡京内の河川 

淀川・大和川下流部は、両川より排出される土砂の堆積で、水害が多発していた。このため
三国川への疏通、大和川の開削工事が摂津大夫・和気清麻呂を中心に進められた。

延暦4年の三国川開削には成功したが、延暦7年に着手した大和川開削は上町台地を
突っ切るので木工事量が膨大で、のべ23万人を動員したが費用が嵩んで失敗している。

淀川河口 

【後紀】延暦18(799)年2月21日条の和気清麻呂の薨伝には
「長岡新都、経十載未成功、費不可勝計。清麻呂潜奏、令上託遊猟相葛野地、更遷上都。
清麻呂為摂津大夫、鑿河内川、直通西海、擬除水害。所費巨多、功遂不成」とある。
「清麻呂は密かに上奏し、遊猟にでかけることを口実に、天皇に葛野の地を視察させた」とある。

延暦11(792)年1月20日、天皇は好みの遊猟にことよせてしたしく葛野の地を視察した。

5月16日、天皇は葛野の地に行幸し、そこにある右大臣藤原継縄の別荘をも訪ねた。

6月22日、激しい雷雨により小畑川が氾濫し、式部省の南門が倒壊した。

8月9日、大雨により洪水で桂川が氾濫し、2日後には天皇自ら桂川畔赤目崎に行き
被害状況を視察した。
この水害が如何に凄まじく、甚大な被害をもたらしたかをうかがわせる。

自然災害の猛威は、桓武天皇に長岡京造営を断念さた。
延暦12(793)年1月15日、天皇は大納言藤原小黒麻呂北家)・左大弁紀古佐美らを
派遣して新京の地・山背国葛野郡宇太村を視察させた。

1月21日、長岡宮を解体するため、東院(第三次内裏)に移った。

造宮太夫は、初めは藤原小黒麻呂北家であったが、のちに和気清麻呂にかわり、
造宮亮は菅野真道であった。

3月1日、天皇は多数の臣僚を従えて葛野の地を視察した。

3月7日、新京の宮城の内に取り込まれる百姓地四十四町に対して、3ヵ年の価直を
給することにした。これ以後、造京第一年は土木工事が大急ぎで進められた。
その間に、天皇は督励を兼ねて幾度(40回近く)も新京つくりの現場を視察している。

9月末、朝廷は幣帛を諸国の由緒ある神社に捧げ、遷都と蝦夷征伐の幸先を
全国土の神々に祈願した。

10月22日、桓武天皇は皇太子以下公卿百官人をえて、葛野郡の新京に入った。

11月8日、桓武天皇は詔を出して、平城京の「山背国」は「山城国」に改め、
新都には唐めかして「平安京」の名称を与えた。
同じ日、旧都大津宮の名称を重んじ「古津」の名を「大津」に改めた。

平安京は長岡京と同様に水陸の便がよく、水陸路とも完成された四通八達の都であった。
特に水路は北や東からは大津・宇治津;南や西からは淀津・山崎津;西北方の丹波からは
大井津(葛野井津)というように、四方にそれぞれに機能分担した外港が設けられていた。

大津は更に琵琶湖北岸を経由して日本海に出るという重要な利点を持っていた。
【書記】仲哀天皇2年3月15日条には、
「即日使遣角鹿、勅皇后曰:便従其津発之、逢於穴門」とあり、
神功皇后が九州に赴く時、角鹿(敦賀)から日本海を西航したと記されている。

敦賀津は、古くから日本海中部以西はもとより、遠く朝鮮・中国へも繋がる要港であった。
日本海との連絡について見れば、長岡京より平安京の位置が更に有利である。

琵琶湖の水運ルート 

【延喜式】・卷第廿六の諸国運漕雑物功賃条によると、
越前・加賀・能登・越中・越後・佐渡など北陸地方からの荷物は、敦賀へ海路輸送され、
そこから塩津へ陸送され、塩津からは船で大津へと渡り、陸路で京都へ運ばれている。
また、若狭国からの荷物は勝野津まで陸送され、そこから船で大津へ運ばれている。

大津は琵琶湖を経て京都へ至る物資輸送の中継地として、江戸時代の初めに西廻り
航路が開発されるまで、幕府及び北陸・東北諸国の倉庫が立ち並び賑わっていたという。



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氷上川継事件

光仁朝は、施政10年にして、ようやく「官を省き役を息める」という思い切った政策を
打ち出して道鏡時代の悪政からの脱却を示し始めた。
その間に、藤原良継藤原百川といった、光仁父子を帝王の座に押し上げるのに機略を
働かせた政客が世を去った。
ここに至って、天皇は誰はばかることなく、人材を太政官に起用できるようになった。

宝亀11(780)年2月1日、太政官のスタッフには長く中枢部から疎外されていた古代の
名士石川名足、万葉末期の歌人でもある大伴家持が加えられ、光仁の外戚関係の
紀広純も抜擢され

右大臣正二位大中臣清麻呂宝亀2(771)年3月13日~
内大臣従二位藤原魚名(北家宝亀10(779)年)1月1日~
大納言従三位石上宅嗣宝亀11(780)年2月1日~
中納言従三位藤原田麻呂式家〃 〃 〃
従三位藤原継縄(南家)〃 〃 〃
参 議従三位藤原浜成(京家宝亀3(772)年4月20日~
従三位藤原是公南家宝亀5(774)年5月5日~
正四位上藤原家依(北家)宝亀8(777)年10月13日~
正四位下大伴伯麻呂宝亀9(778)年1月9日~
従四位上藤原乙縄南家宝亀10(779)年9月13日~
従四位下藤原小黒麻呂(北家)宝亀10(779)年12月30日~
正四位下大伴家持宝亀11(780)年2月1日~
従四位下石川名足〃 〃 〃
従四位下紀広純〃 〃 〃

3月16日にはにあたる正四位下神王を参議に加え、いよいよ王権の独自性を強め始めた。
藤原南家略図 1-2 

その矢先の3月22日、陸奥国から急使が東北辺境での由々しき異変を朝廷にもたらした。
蝦夷の住地に接する伊治(栗原)郡の大領・伊治公呰麻呂が、伊治城で参議で陸奥按察使兼
鎮守府副将軍の紀広純を殺害し、更に多賀城を攻略したというのである。

「官を省き役を息める」という民政改革に手を下したばかりなので、老天皇は内治と征討の
両面に精励したが、気力尽き果てて、反乱後1年にして病を理由に位を皇太子に譲った。

天応元年(781)年4月3日、父の譲位を受けて山部親王が即位し、桓武天皇となった。
皇太子には同母弟の早良親王をたてた。
光仁天皇は、同年12月23日に崩御した(享年73歳)。

天応2(782)年閏正月10日、大和乙人という者が密に武器を帯びて宮中に闖入したが、
発覚されて捕らえられる事件が起きた。
乙人は官の訊問を受けて、その主人・氷上川継を首謀者とする謀反の計画を自白した。
証言によると、川継は一味を集めて北門から皇居に押し入り、朝廷を倒そうと企んでいた
というものであった。
翌11日、川継を召喚する勅使が派遣された。川継はこれに気づき姿をくらまそうとしたが、
14日に大和国葛上郡に潜伏しているところを捕らえられた。

父母ともに天武系、わけても生母が聖武天皇の娘であるという関係からすれば、
川継は、光仁・桓武の父子王朝の成立に強い不満を持っていたであろう。
おのれこそが正統の皇位継承者だと自負していたかもしれない。

川継の罪は死罪に値するところ、光仁天皇の喪中であるという理由で、
罪一等を減じられて妻・法壱とともに伊豆国三島(田方郡)に流された。
母の不破内親王は娘たちとともに淡路国へ流された。
さらに法壱の父である参議藤原浜成も連座して参議を解任された。
藤原京家略図1-2 

浜成は延暦9(790)年の死没まで太宰員外師に据え置かれ、ついに中央政界に復帰する
ことができなかった。藤原諸流の中の京家ははやくも没落した。

また、三方王(系詳ならず、舎人親王の孫か)・山上船主(系詳ならず、山上憶良の子か)・
参議大伴家持・右衛士督坂上苅田麻呂らがそれぞれ刑罰を受けた。

間もなく家持・苅田麻呂は、嫌疑がはれたのか、同年5月には元の地位に復している。
しかし、三方王、その妻弓削女王(父は三原王、祖父は舎人親王)、山上船主は、
天皇を呪詛したとして船主は隠岐に、三方は妻の弓削女王とともに日向に流された。

同年6月には太政官の首席を占めていた左大臣兼太宰帥藤原魚名が罷免され、
累は三人の息子にも及んだ。藤原魚名はその翌年にこの世を去った。
藤原北家略図1-2 

川継は配所で20年以上過ごした後、延暦24(805)年3月に赦免され、翌年には従五位下に
復した。弘仁3(812)年には、伊豆守として再び伊豆国へ赴任することになる。


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井上廃后事件

宝亀元(770)年10月1日、62歳の白壁王は大極殿で即位して光仁天皇となった。
井上内親王を皇后に、他戸親王(10歳?)を皇太子に立てた。
光仁天皇は天智系であるというコンプレックスから、聖武に連なるものを第一に
顧慮せざるを得なかった。
左大臣藤原永手も井上内親王の立后と他戸親王の立太子に尽力したと言われている。

臣下から押し立てられて皇位についたものは、大化の革新以来、孝徳天皇を別にすれば
白壁王が初めてである。
父聖武の栄光を胸にいだく井上皇后からすれば、臣下から王座によじ登った光仁の
後ろ楯として、形勢を決定的に有利に導いたのは自分であるとしていた。

白壁王は早くから山城国の帰化人の有力者とも関係があったと見え、聖武の朝廷に
仕えていた頃に、高野新笠を妻に迎えて、天平9(737)年に山部王をもうけた。
父白壁王が即位した時、山部王は既に34歳であった。
山部王は直ちに侍従に任ぜられ、ついで親王宣下を受け、更に中務省の卿という
要職に起用された。彼にとってのいわば第二の人生がまさに開けようとしていた。
たが、前面に立ちはだかる壁は異母弟の他戸皇太子であった。

光仁天皇    

野心家の藤原百川などはかなり早くから山部王の器量に注目し、むしろ山部王の方を
異材としてその将来に嘱望していた。彼は壁の重圧にたじろぐ山部親王を激励し、
同時に宮廷で、この中務卿の株を上げるために立ち回った。

成立したばかりの新王権のもとで、藤原氏の抬頭は甚だしく、弱腰の老天皇は
絶えずぐらついていた。特に宝亀2(771)年2月21日の左大臣藤原永手の死は、
彼をいつも相談の相手にしていた光仁天皇にはかんりの痛手であった。
その頃から天皇の衰えは目立って来た。
それに付け込んだ藤原百川の暗躍は、誇り高い井上皇后を著しく刺激した。
皇太子の首の挿げ替えが彼の最終の目標であった。

井上皇后の方でもこの動きに触れて焦り出した。
彼女は皇太子の安泰を願って、侍女達にある種の呪術をやらせたようだ。
そういう呪術は、古代の貴族・平民を問わず、すべての人々の生活の一部をなしていた。

後見をまったく持たない井上皇后の惑いは、かえって百川側に利用された。
百川光仁天皇に対して、皇后らが天皇を呪い殺そうとしていると密告した。
天皇は度を失って狼狽えた。しかし、ほかの廷臣の密奏であればともかく、
百川のそれをしりぞけることは容易ではなかった。

狙われた井上皇后にとってすこぶる不利な材料が色々と出て来た。
ワナにかかった獲物にすぎない皇后は、夫に対して申しひらきさえ許されず、
宝亀3(775)年3月2日に皇后を廃された。
累はやがって他戸皇太子に及び、5月27日に皇太子を廃されることになった。

井上皇后と皇太子の廃退の一幕は、山部親王を擁しての藤原良継藤原百川
藤原式家一派の計略であった。

藤原式家 

宝亀4(773)年1月2日、山部親王(37歳)が新たに皇太子に立てられた。
山部親王を推す藤原百川らに対し、参議藤原浜成高野新笠の身分を問題視し、
山部親王の異母弟薭田親王(母は尾張女王)を推挙し、激しく対立したという。

10月14日、難波内親王(光仁天皇の同母姉)が薨去した。
10月19日、難波内親王の死も廃后・井上内親王の呪詛によるものとされ、他戸親王と共に
庶人に落とされ大和国宇智郡(現在の奈良県五條市)に護送され、没官(藤原南家?)の邸
幽閉された。

奈良県五條市 
 

宝亀6(775)年
4月27日、井上内親王(59歳)と他戸親王(15歳)は同日に没した。
死因については明記がない。しかし同じ日にこの異変があったからには、たぶん
何者かの手によって命を落としたと思われる。

【本朝皇胤紹運録】には、「二人が獄中で亡くなった後、龍になって祟って出た」;
【水鏡】には、「井上内親王が祟って出て、藤原百川を苦しませた」;
【愚管抄】には、「井上内親王は龍となって藤原百川(48歳)を蹴殺した」と記してある。

宝亀8(777)年12月28日、光仁天皇は井上内親王の遺骨を改葬させ、墓を御墓と追称した。


延暦19(800)
年7月19日、崇道天皇(早良親王)の名誉回復にあわせ、井上内親王も
皇后の位が復され、「吉野皇太后」の称号を贈られ、御墓を山陵と追称した。
この時、慰霊のために霊安寺が建立され、同時に霊安寺の隣に内親王を祀る御霊神社
創建されたと伝わっている。

陵墓は奈良県五條市御山町の宇智陵に比定されている。
霊安寺はその後、兵火にかかって焼失し、現在は寺名のみが霊安寺町として残っており、
御霊神社(本宮)だけが残っている。

五條市霊安寺町鎮座の御霊神社本宮 

五条市内には御霊神社(本宮)のほか、分祀された御霊神社が20余社もあるそうです。
御霊神社秋祭り 




               日本の歴史

宇佐八幡神託事件

道鏡は河内国若江郡(大阪府八尾市)の弓削に生まれ、若年の頃に法相宗の
高僧・義淵の弟子となったという。

義淵
は法相宗の巨匠で僧正となり、行基(東大寺の勧進)・道慈(大安寺流の祖)・玄昉
良弁(東大寺の開基)ら、八世紀半ばまで有名な僧は、皆その弟子だという。

路真人豊永
を師として儒学も勉強したという。
路氏は橘氏と同族。路跡見→虫麻呂→豊永→長田麻呂→・・・。

天平19(747)年頃には、良弁の下で働いていたが、何時のころからか、この道鏡は宮中に
出入するようになった。おそらく、彼の師であり、且つ東大寺の造営に大きな役割を果たし
ていた良弁の推薦があったのであろう。

仲麻呂淳仁天皇を擁して権力を欲しいままにしていた頃、道鏡はすでに内道場
禅師になっていた。

藤原仲麻呂の乱後、大臣禅師となった道鏡は、天平神護元(765)年秋、称徳女帝とともに
紀伊の玉津島(和歌浦)に遊び、帰途河内の弓削にまわった。
弓削寺に礼拝した称徳天皇は道鏡を太政大臣に任命し、故郷に錦を飾らせた。

翌766年冬、道鏡は法王の称号を得た。
同じ日、道鏡の腹心の円興基信にも、それぞれ法臣と法参議という肩書が与えられた。
僧侶が王と呼ばれるのみならず、大臣・参議の席まで占めるとは前代未聞であった。
道鏡の後ろ盾を受け、実弟弓削浄人ら近親十数人も、あっという間に五位以上の高官に
なり、人々をあきれさせた。
基真は俗姓物部氏、道鏡とは同祖になる。
       物部奈洗→堅石→・・・足人→宅麻呂→基信→

後に称徳女帝と道鏡の七年を回顧した者は、皆「政刑日に峻しく、殺戮みだりに加えき」とか、
「軽軽しく力役を起し、務めて伽藍を繕えり。公私彫喪して国用足らず」と評している。

造寺・造仏に専念する称徳女帝と道鏡は、官人貴族たちからどう思われようと、
権威と権力の座にいた。
二人に自ら進んで阿る者も、少なくはなかった。

神護景雲3(769)年5月、大納言兼大宰帥の弓削浄人大宰主神習宜阿曾麻呂
「道鏡を天皇にすれば天下が太平になるであろう」という内容の宇佐八幡宮の神託を
奏上した。
中臣習宜氏は物部氏の一族で、饒速日命の孫・味饒田命の後裔と称した。

称徳女帝は迷った。いかに道鏡を敬愛しているとは言え、また道鏡を法王にし
法王宮職という官庁まで新設して、天皇同様の待遇を与えていたとは言え、
天皇の位につけるには、さすがに勇気が要った。
大和朝廷以来の貴族たちは、とても同意すまい。

しかしもう一度朝廷から正式な使者を立て、神に念を押すことができれば、
反対者たちも有無が言えなくなるはずである。

その場合の使者は、明い浄い心の持ち主というか、誰からも清廉潔白と見られている
人物でなくてはならない。
称徳女帝が選んだのは37歳になる近衛将監・和気清麻呂であった。

和気氏略図

清麻呂
とその姉広虫とは、備前国和気郡の豪族の出てある。
広虫は紫微中台の官人だった夫に死別してから、尼法均と名乗って称徳女帝に仕え、
謙虚な、慈悲心に厚いその人柄を深く信用されて、男性なら僧綱にあたる大尼という
高い地位を与えられていた。

そうした関係から、弟の清麻呂の剛直な性質や仲麻呂の乱に中衛府の武官として
活躍した経歴も、称徳女帝によく知られていた。

称徳女帝から、清麻呂を使者としたことを聞いた道鏡は、清麻呂を法王宮職に招待し、
そつなく大役を果たしたら大臣にしてやろう、と言わんばかりの口ぶりだったという。

道鏡の儒教の師であった路真人豊永は、宇佐へ派遣されることになった和気清麻呂に
向かって、「彼奴が天皇になるようでは、わたしはどの顔下げて出仕できよう。
同志二、三人と山中に逃れて、現代の伯夷になるだけだ」と慨嘆したという。

伯夷のように飢死した方がましだと言うのだが、この言葉は思い悩んでいた清麻呂を
激励することになったらしい。

使者任命は夏のはじめだったらしいが、宇佐まで往復すると、秋もふけていた。
清麻呂が聞いてきた神託は、帰京後、大尼法均を通じて奏上された。
「わが国は開闢以来、君臣定まれり。臣をもて君とすること、いまだこれあらず。
天つ日嗣には、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」
称徳女帝はさておき、道鏡は激怒した。神託を偽ったというのである。

清麻呂は直ちに別部穢麻呂と改名させられ、因幡員外介に左遷と決まったが、
出発しない内に、更に官位一切を剥奪して大隅に流すことになった。
姉の法均も還俗させられて、別部狭虫と名付けられ、備後へ流罪になった。

翌770年4月、由義宮で歓楽の日々を過ごしていた称徳女帝は、いささか五体の不調が
気になって平城京に帰った。そしてそのまま病みついてしまったのである。

道鏡らの看病にもかかわらず病状は日ましに悪くなった。8月3日、称徳天皇は後継者を
指名しないまま、数々のスキャンダルに彩られた53歳の生涯をとじた。

崩御後間もなく、宮廷の奥深くで皇嗣選定のための内密の会議が開かれた。
法王道鏡はそこに姿を見せていなかった。
右大臣吉備真備長親王の子で既に臣籍に移っていた大納言文屋浄三、次いで
その弟参議文屋太市を強く推挙した。
長親王 
 

だが、左大臣藤原永手・内大臣藤原良継らは、天智天皇の孫にあたる大納言白壁王
支持して譲らなかった。
藤原百川は、この王の擁立のために舞台裏で大変な奔走を続けた。 

藤原氏の足並みの揃った力の前に、孤立無援の老いたる真備は敗退した。
藤原氏の大官らの手で女帝の遺書が書かれ、そこに、白壁王を皇嗣に定める旨が
明らかにされた。

称徳女帝の死は直ちに法王道鏡の失脚を運命づけた。
道鏡が統御したはずの官大寺はもとより、どこにも騒ぎは起らなかった。

亡き女帝の陵下に追福の勤行を続けていた傷心の道鏡は、坂上苅田麻呂の讒言に
よって、(8月21日)造下野国薬師寺別当としてあっさり平城京から追放されてしまった。

「坂上苅田麻呂の讒言」ついて、【続紀】には「以告道鏡法師姦計也」とあるのみで、
その内容については一言半句も触れていない。

9月6日、和気清麻呂が大隅国から召還された。

10月1日、62歳の白壁王は大極殿で即位して光仁天皇となった。
元号は「宝亀」と改められた。

翌宝亀2(771)年3月、和気清麻呂は従五位下に復位し、9月には播磨員外介に次いで
豊前守に任ぜられて官界に復帰した。
その後,民部大輔,摂津大夫などを経て、延暦7(788)年には中宮大夫に任ぜられて
皇太夫人・高野新笠にも仕えた。
延暦12(793)年には造宮大夫に任ぜられ、平安遷都に尽力した。

宇佐八幡宮 



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四国地方の諸藩

四国地方の諸城
04 四国地方の諸城 

四国地方の諸藩
07 四国地方の諸藩 

1阿波:板野郡、阿波郡、美馬郡、三好郡、麻殖郡、名西郡、名東郡、勝浦郡、那賀郡、
     海部郡。
   藩:徳島藩。
01 阿波国 

2土佐:安藝郡、香美郡、長岡郡、土佐郡、吾川郡、高岡郡、幡多郡。
   藩:高知藩。
02 土佐国 

3讃岐:香川郡、三野郡、豊田郡、大内郡、那珂郡、寒川郡、鵜足郡、山田郡、三木郡、
     多度郡、阿野郡、小豆島。
   藩:高松藩、丸亀藩、多度津藩。
04 讃岐国 

4伊予:宇摩郡、新居郡、周敷郡、桑村郡、越智郡、野間郡、風早郡、和気郡、温泉郡、
     久米郡、浮穴郡、伊予郡、喜多郡、宇和郡。
   藩:西条藩、小松藩、今治藩、松山藩、大洲藩、新谷藩、宇和島藩、吉田藩。
03 伊予国 


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Author:愛犬・りく君
茨城県日立市十王町で
漢方整体院を経営してます。

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