徳川二元政治の構造

慶長10年代:1605年~1614年
江戸:将軍政治家(秀忠の側近)/関東政権(幕府の基礎作り)。
関東総奉行
本多正信本多家系図
青山忠成:慶長11(1606)年失脚,青山家系図
内藤清成:慶長19(1614)年失脚,内藤家系図

江戸年寄(老職):
大久保忠隣大久保家系図
酒井忠世酒井家系図
土井利勝: 土井家系図;
安藤重信安藤家系図

留守居
酒井忠利酒井家系図

江戸老中(若年寄に相当):
水野忠元水野家系図
井上正就井上家系図

江戸町奉行
米津田政: 米津家系図;
島田利正: 島田家系図。

家光の小姓(家光側近):
松平信綱松平家(大河内)系図
安倍忠秋安倍家系図
三浦正次: 三浦家系図。

駿府:大御所政治家(家康の側近)/全国政権(幕藩体制の組織作り)。
新参譜代:政治一般(老職);
本多正純本多家系図
成瀬正成:のち尾張徳川家付家老へ
安藤直次:のち紀州徳川家付家老へ
竹腰正信:のち尾張徳川家付家老へ

近習出頭人:
松平正綱:財政・会計,松平家(大河内)系図
板倉重昌:豊臣方との交渉,板倉家系図
秋元泰朝:政治一般,秋元家系図

僧侶
金地院崇伝:外交事務・寺社行政;
天海:寺社行政。

学者
林羅山・・・:学問・文教政策。

豪商
茶屋四郎次郎:呉服師・朱印船貿易;
後藤庄三郎:貨幣鋳造(金貨);
角倉了以:河川行政・朱印船貿易;
湯浅作兵衛:貨幣鋳造(銀貨);
長谷川左兵衛:外国貿易・朱印船貿易。

代官頭
伊奈忠次:農村行政(検地),伊奈家系図
大久保長安:鉱山奉行・農村行政(検地);
彦坂元正:農村行政(検地)。

外国人:外交顧問;
ウイリアムアダムス
ヤンヨーステン

京都所司代
板倉勝重:板倉家系図。

青山家系図:源氏新田流。
青山家略図 

✤青山忠成:通称藤蔵、藤右衛門。従五位下常陸介・播磨守。
  2代将軍秀忠に近侍し、慶長6(1601)年に加判となり、さらに関東総奉行を勤めた。
  一時、秀忠の勘気を受けたが、のち許されている。
  この間、加増を重ね同11年には相模・近江・上総・下総内で2万石余を領した。
  元和9(1623)年、子忠俊のとき3代将軍家光の勘気を受け老中を罷免され、
  上総大多喜に減封となり、更に蟄居を命じられ改易となった。

✤青山宗俊:忠成の孫、通称藤五郎。従四位下因幡守。
  父忠俊改易後、寛永11(1634)年に赦免されて召し出された。
  その後、大番頭、大坂城代などを歴任。
  慶安元(1648)年、加増されて信濃小諸3万石を領した。
  更に転封を重ね、延宝6(1678)年には遠江浜松において5万石を領した。
  その後、転封を重ね、寛延元年(1748)に丹波篠山6万石に入封定着。
  10代忠敏のとき廃藩置県。

✤青山幸成:忠成の四男、通称藤蔵、雅楽助。従五位下大蔵少輔。
  秀忠に近侍として仕え、書院番頭、小姓組頭などを歴任。
  寛永5(1628)年に老中となり幕政を担当した。
  この間、加増され、同12年には摂津尼崎5万石を領した。
  その後、転封を重ね、宝暦8(1758)年に美濃郡上4.8万石に入封定着。
  11代幸宜のとき廃藩置県。

内藤家系図:藤原秀郷流。
内藤家略図 

✤内藤信成:通称三左衛門。従五位下豊前守。家康の異母弟ともいう。
  家康に仕え、諸所の合戦に従軍した。
  天正18(1590)年関東入国のさい伊豆韮山で1万石を領した。
  更に慶長5(1600)年に駿河府中4万石、同11年には近江長浜へ移封された。
  その後、転封を重ね、享保5(1720)年に越後村上5万石に入封定着。
  13代信美のとき廃藩置県。

✤内藤政長:通称金一郎。従四位下左馬助。
  家康に仕え、慶長5(1600)年に家督を相続し上総佐貫2万石を領した。
  元和8(1622)年に陸奥平7万石に加増転封された。
  延享4(1747)年、日向延岡7万石に入封定着。
  13代政挙のとき廃藩置県。

✤内藤政晴:政長の四男、通称兵部。従五位下兵部少輔。
  寛永11(1634)年に兄忠興の所領陸奥高槻2万石を譲られ別家となった。
  寛延2(1749)年、三河挙母2万石に入封定着。
  11代文成のとき廃藩置県。

遠山:忠興の三男、通称百助、従五位下主殿頭。
  寛文10(1670)年に新田1万石を分与され別家となり、大番頭や大阪定番を勤めた。
  以後変わることなく(陸奥湯長谷1.5万石)、廃藩置県。
  なお、三代政貞のときに内藤姓に復姓した。

✤内藤忠重:通称甚十郎、主税助。従五位下伊賀守・志摩守。
  家康に仕え、奉行人をつとめ幕政を担当した。
  この間、加増を重ね寛永2(1625)年に1万石、同11年に志摩鳥羽3.5万石余に転封。
  延宝8(1680)年、三代忠勝のとき、四代将軍家綱の法事の席で永井尚長に刃傷し、
  切腹を命ぜられ改易となった。

✤内藤正勝:政季の子、通称平八郎、従五位下豊前守。
  政次の養子となり、5000石を知行した。
  家綱に仕え、中奥小姓、書院番頭、留守居などを歴任した。
  元禄6(1693)年に大阪定番となり、1万石を加増され大名になった。
  元禄16年、信濃岩村田1.5万石に入封定着。
  8代正誠のとき廃藩置県。

✤内藤清成:通称弥三郎、従五位下修理亮。
  家康に仕え、江戸町奉行、関東総奉行を兼任した。
  慶長6(1601)年に常陸内2.1万石を領した。
  元和9(1623)年、三代清政のとき継嗣なく断絶し、三男正勝に 名跡として
  安房勝山2万石が与えられた。
  寛永7(1630)年、正勝の死後、子重頼は幼少のため所領を返還したが、
  貞享元年(1684)に再び大名になった。
  元禄4(1691)年に信濃高遠3.2万石に入封定着。
  8代頼直のとき廃藩置県。

本多:内藤正成の三男、通称藤四郎、本多佐渡守正信の養子。
  正室は安藤対馬守重信の女。
  元和2(1616)年の東照宮造営に際し副奉行の職にあり、同僚の山城宮内と争論する。
  ために山城宮内は日光山で自害し、正盛も造営工事完成の後、妻の妹が
  嫁している松平(大給)成重の板橋城下に到り自刃して41歳の生涯を閉ず。
  山城宮内少輔忠久は慶長12(1607)年に駿府城普請奉行を務めた。
  安藤重信の女との間に生まれた三人の子は外祖父・重信の養子となった。
  元和7(1621)年、長男・重長は家督を相続し、上野高崎藩2代藩主となった。
  
  

大久保家系図:下野宇都宮氏(藤原道兼)の支流。
大久保家略図 

✤大久保忠佐:通称治右衛門。
  家康に仕え、諸所の合戦に従軍した。
  特に元亀3(1572)年の三方ヶ原の戦いでは殿をつとめた。
  慶長6(1601)年に駿河沼津2万石に転封となった。
  慶長18年、死去の後、継嗣なく断絶となった。

✤大久保忠隣:通称新十郎、従五位下治部少輔・相模守。
  家康に仕え、文禄3(1594)年に父忠世の家督を相続し、相模小田原4万石を領した。
  その後、二代将軍秀忠に近侍し老中を勤め、幕府創業に力を尽くした。
  慶長19(1614)年、本多正信・正純親子との確執から次第に不利な立場に
  追い込まれ、謀られて改易され、井伊家に御預けとなった。

✤大久保忠常:通称新十郎、従五位下加賀守。
  秀忠に仕え、慶長5(1600)年の関ケ原の戦い後、武蔵騎西で2万石を与えられた。
  二代忠職のとき祖父忠隣に連座し同地に蟄居謹慎となった。
  その後、許されて加増転封をかさね、貞享3(1686)年に相模小田原11.3万石に
  入封定着した。
  明治元年(1868)、戊辰戦争にさいし最後まで去就に迷い7.5万石に減封となり、
  12代忠良のとき廃藩置県。

✤大久保教寛:通称外記、帯刀、従五位下長門守。
  忠朝の次男、元禄10(1697)年に新田6000石を分与され別家となる。
  書院番頭、御側、若年寄などを歴任。
  この間、加増されて宝永元年(1704)には1.1万石を領した。
  天明3(1783)年、五代教翅のとき相模中萩野に陣屋を置いた。
  7代教義のとき廃藩置県。

✤大久保忠高:通称市十郎、従五位下山城守・佐渡守・伊豆守。
  四代将軍家綱、五代綱吉に仕え、小姓組番頭、留守居、御側などを歴任した。
  この間、加増を重ね貞享3(1686)年に蔵米を合わせて1万石を領した。
  元禄元年(1688)、知足院造営の奉行を勤めたが、古材や朽材を使用したため
  咎めから閉門となる。
  同10年に地方直しを受け近江内で1万石を領した。
  享保10(1725)年、下野烏山2.8万石に入封定着。
  9代忠順のとき廃藩置県。

加納:通称孫市、角兵衛、従五位下近江守・遠江守。
  はじめ紀伊徳川家に仕え、享保元年(1716)吉宗の将軍就任に従い幕臣となった。
  吉宗の側近として御側、側用人、若年寄を歴任した。
  この間、加増を重ね同11年に伊勢八田1万石を領した。
  はじめ陣屋を伊勢東阿倉川に置いていたが、文政9(1826)年に上総一宮に移転し、
  8代久宜のとき廃藩置県。
 

酒井家系図:大江氏,或 清和源氏新田氏の子孫。
酒井家略図  

✤酒井家次:母は徳川家康の叔母碓井姫であり、家康の従弟にあたる。
  通称小五郎、従五位下宮内大輔・左衛門尉。
  家康に仕え、天正18(1590)年関東入国のさい下総臼井3万石を与えられた。
  慶長9(1604)年、高崎に加増転封。
  更に元和元年(1615)、越後高田10万石に加増転封された。
  その後、転封をかさね、元和8(1622)年に出羽庄内12万石に移封。
  大泉藩と改称して廃藩置県を迎えた。

✤酒井忠恒:忠勝の三男、通称大学、従五位下大学頭。
  天保4(1647)年に父の遺領出羽松山で2万石を分与され別家となった。
  以後変わることなく、8代忠匡のとき松嶺藩と改称して廃藩置県。

✤酒井重忠:正親の長男、通称与四郎、従五位下河内守。
  家康に仕え、諸所の合戦に従軍した。
  慶長6(1601)年、上野前橋において3.3万石を領した。
  寛延2(1749)年に播磨姫路15万石に入封定着。
  18代忠邦のとき廃藩置県。

✤酒井忠寛:忠清の三男、従五位下下野守。
  天和2(1682)年に上野伊勢崎2万石を分与され別家となった。
  以後変わることなく、9代忠彰のとき廃藩置県。

✤酒井忠利:正親の三男、通称与七郎、従五位下備後守。
  家康に仕え、諸所の合戦に従軍した。
  慶長6(1601)年、駿河田中1万石を領した。
  ついで同14年に武蔵川越に移封となり2万石を領した。
  寛永11(1634)年に若狭小浜10.3万石に入封定着。
  15代忠禄のとき廃藩置県。

✤酒井忠国:通称勝之助、従五位下越前守・大和守。
  寛文6(1666)年に叔父忠直から安房勝山1万石を分与され別家となった。
  その後、奏者番や寺社奉行を歴任した。
  以後変わることなく、9代忠美のとき加知山藩と改称し廃藩置県。

✤酒井忠稠:忠直の次男、通称右京、従五位下右京亮。
  天和2(1682)年に父の遺領越前鞠山1万石を分与され別家となった。
  その後大番頭をつとめている。
  以後変わることなく、明治3(1870)年、8代忠経のとき本家小浜藩に合併された。

土井家
土井家略図  

✤土井利勝:通称甚三郎、従四位下侍従兼大炊頭。
  秀忠に幼時から近侍し、側近として活躍、寛永10(1638)年に大老になり幕政を担当。
  秀忠の信頼も厚く、性格は明敏で知略に富んでおり、表面には顔を出さない
  家康譲りの謀略家と言われる。
  坂崎出羽守直盛、本多正純、松平忠直、徳川忠長、加藤忠広などの改易。
  この間、慶長7(1602)年に下総お小見川で1万石を領したのをはじめ、
  寛永10年には下総古河で16万石を領した。
  延宝3(1675)年、四代利久のとき無嗣断絶となり、叔父利益に名跡の相続が許された。

三浦:通称甚太郎、従五位下志摩守。
  母が土井利昌の娘で、土井利勝の甥にあたる(秀忠の落胤?)。
  家光に近侍し小姓組番頭などを歴任。
  寛永10(1633)年に六人衆にえらばれ幕政に参与した。
  この間、加増をかさね寛永7年に下野内で1万石を領し、さらに同16年には
  下野壬生で2.5万石を領した。
  その後、転封をかさね明和元年(1764)に美作勝山2.3万石に入封定着。
  15代顕次のとき真島藩と改称して廃藩置県。

水野家系図:清和源氏満政流。
水野家略図 

✤水野勝成:通称六左衛門、従四位下日向守。
  始め家康に仕え、のち父と不仲になり秀吉、佐々成政、小西行長などに仕えた。
  慶長5(1600)年、父忠重が西軍に誘われるも断ったので殺害されると
  家督(三河刈谷3万石)を相続した。
  その後、元和元年(1615)に大和郡山6万石に移封され、
  ついで同5年には備後福知山10万石を領した。
  元禄11(1698)年、5代勝岑の時に継嗣なく断絶した。
  勝成の孫にあたる勝長が勝岑の名跡を相続し、石高を大幅に削減され
  能登西谷で1万石が与えられた。その後、綱吉の命で柳沢吉保邸に住み、
  加増を重ね、元禄16年には下総結城で1.8万石を領した。
  以後変わることなく、11代勝寛のとき廃藩置県。

✤水野忠清:通称権十郎、従五位下隼人正。
  秀忠に仕え、書院番頭、奏者番をつとめ、慶長7(1602)年に上野小幡で1万石を領した。
  その後、転封加増を重ね、寛永19(1642)年に信濃松本で7万石を領した。
  享保10(1725)年、6代忠恒のとき発狂して江戸城で刃傷し改易された。
  分家の若年寄水野忠定の取り成しにより、忠穀に7000石が与えられて名跡を相続した。
  忠穀の嫡男・忠友は10代将軍家治の新任を得、若年寄、側用人などを歴任し
  側近として幕政に参与した。
  天明5(1785)年に老中に進み、駿河沼津で3万石を領した。
  明治元年(1868)、8代忠敬のとき上総菊間5万石に移封となり廃藩置県。

✤水野忠位:通称左近、宮内、従五位下肥前守。
  元禄7(1694)年に家督を相続し7000石を知行した。
  その後、中奥小姓、御側、大坂城代を歴任。
  正徳元年(1711)に加増され1.2万石を領した。
  文政10(1827)年に上総鶴牧1.6万石に移封となり、6代忠順のとき廃藩置県。

✤水野分長:通称内匠・三左衛門、従五位下備後守・弾正忠。
  はじめ家康に仕え、のち蒲生氏郷に仕えた。
  その後、慶長4(1599)年に家康に再勤し大番頭をつとめた。
  同11年に加増され三河新城1万石を領した。
  元和元年(1615)に水戸徳川頼房に付属され、家督を子元綱に譲った。
  寛文7(1667)年、3代元知のとき(上野安中2万石)発狂し改易となった。
  長男の元朝に2000石が給され、子孫は旗本として存続した。

✤水野重央:初代紀伊徳川家の付家老、紀伊新宮3.5万石。
  安藤直次:紀伊田辺城に3.8万石。

✤水野忠元:従五位下監物。
  幼時より2代将軍秀忠に仕え、書院番頭や老中などを暦任。
  元和頃に下総山川で3.5万石を領した。
  その後、加増転封をかさね、正保2(1645)年、忠善のとき三河岡崎5石に移封;
  宝暦12(1762)年、忠任のとき肥前唐津6万石に転封;
  文化14(1817)年、11代忠邦のとき自ら願い出て遠江浜松6万石へ転封;
  弘化2(1845)年、12代忠精のとき出羽山形5万石に移封;
  明治3(1870)年、13代忠弘のとき近江朝日山5万石に転封となり、廃藩置県。

:清和源氏、或は安部朝任の末裔。

✤安藤直次:基能の長男、通称彦四郎、のち彦兵衛、帯刀。従五位下帯刀。
  幼時から家康に仕え、天正18(1590)年の関東入国のさい1000石を知行。
  慶長10(1605)年には武蔵国において2300石を与えられた。
  本多正純や成瀬正成と共に家康の側近として初期幕政を取り仕切った。
  慶長15(1610)年、家康の命により徳川頼宣付の家老に任じられた。
  元和5(1619)年、頼宣が紀伊和歌山城に移ると、紀州藩附家老として移り、
  田辺城に3.8万石の所領を与えられた。
  16代直裕のとき藩屏に列し、廃藩置県。

✤椋原(壱岐)政長:井伊直政の家臣。

✤安藤重信:通称彦十郎、五左衛門、従五位下対馬守。
  家康に仕え、慶長16(1611)年に奉行職となり、翌年下総・香取・結城郡内で
  1万石を領した。その後、秀忠の側近として活躍。
  加増され元和5(1619)年には上野高崎5.6万石を領した。
  その後、備中松山、美濃加納へと転封をかさね、宝暦6(1756)年に
  陸奥平へ5万石で入封し定着。

✤本多(藤四郎)正盛:内藤正盛の三男、本多佐渡守正信の養子。
 

安藤氏井上氏系図
井上氏&安藤氏略図 
井上氏:源満実の子孫。
✤井上正就:通称半九郎、従五位下主計頭。
  母が秀忠の乳母であったため、早くから秀忠に近侍した。
  元和元年(1615)に小姓番頭となり加増されて1万石の大名となった。
  更に同8年に加判に進み遠江横須賀5.2万石余を領した。
  寛永5(1628)年8月、西の丸で目付豊島正次に殺害された。
  その後、転封を重ね、弘化2(1845)年に遠江浜松6万石余に入封。
  明治元年(1868)、上総内に転封となり、翌年、鶴舞に藩庁を置き廃藩置県。

✤井上政重:通称清兵衛、従五位下筑後守。
  目付、大目付などを勤めた。
  寛永15(1638)年、島原の乱には上使として一揆の鎮定に努めた。
  この間、加増されて同17年に上総・下総内で1.3万石を領した。
  延宝3(1675)年、下総高岡に陣屋を置き、11代正順のとき廃藩置県。

✤井上正長:通称主税、内記、従五位下遠江守。
  元禄6(1693)年、父の遺領内で3000石を分与され幕臣となった。
  同11年、甲斐府中藩徳川家宣付の家老となり、知行地を子に譲り、
  自身は藩領内で別に4000石を知行した。
  その後、家宣の将軍職就任にともない宝永元年(1704)に再び幕臣となり
  御側、奏者番、寺社奉行などを歴任した。
  この間、加増をかさね正徳2(1712)年に常陸下妻1万石を領した。
  以後変わることなく、14代正己のとき廃藩置県。 

:藤原兼家の長男・道隆の後裔。
米津氏略図 

✤米津田政:通称勘兵衛、5000石の旗本。
  初代江戸北町奉行。

✤米津田守:通称内蔵助。従五位下出羽守。
  寛永2(1625)年に家督を相続し5000石を知行した。
  その後、書院番頭、大番頭、大坂定番を歴任。
  この間、加増されて寛文6(1666)年に1.5万石を領した。
  寛政10(1798)年に出羽長瀞1.2万石に入封定着。
  明治4(1871)年、10代正敏のとき居所を常陸龍ヶ崎に移し廃藩置県。

氏系図:土岐氏の一族。
島田家略図 
✤島田利正:従五位下弾正忠、5000石の旗本。
  島田重次の五男、2代目江戸南町奉行。
  子の守政は8代目江戸北町奉行。

阿倍家系図:藤原道兼流の八田知家の末流、或は源義朝の落胤。
阿部氏略図 

✤阿部正次:通称善九郎。従四位下備中守。
  譜代家臣・阿部正勝の長男、慶長5(1600)年に家督を継ぎ、書院番頭となり、
  加増されて武蔵鳩谷1万石を領した。
  さらに元和3(1617)年に上総大多喜3万石に加増転封。
  寛永3(1626)年には大阪城の守衛を命じられ、全部で8万石余を領した。
  その後、加増転封を重ね、宝永7(1710)年に備後福山11万石に入封定着。
  14代正桓のとき廃藩置県。

✤阿部忠秋:通称小平次。従四位下侍従兼豊後守。
  慶長15(1610)年、召し出されて家光の小姓となった。
  ついで小姓組番頭を勤め、寛永10(1633)年に六人衆に列し幕政に参与した。
  のち老中となり家光の死後は家綱の後見として幕政の運営に当たった。
  この間、寛永2年に加増されて1万石を領し、その後も加増を重ね、
  寛文4(1664)年は武蔵忍8万石を領した。
  その後、文政6(1823)年に陸奥白河10万石に転封となり、
  更に慶応2(1866)年に陸奥棚倉6万石へ転封。
  17代正功のとき廃藩置県。

✤阿部正春:重次の次男、通称吉兵衛。従五位下因幡守・伊予守。
  幼時より四代将軍家綱の小姓を勤め、慶安4(1651)年に父の遺領のうち
  上総大多喜領1.6万石を分与され別家となった。
  万治2(1659)年、兄定高の遺言により本家の家督を相続した。
  寛文11(1671)年、定高の子正邦に家督を譲り、再び分家した。
  宝永7(1710)年に上総佐貫1.6万石に入封定着。
  9代正恒のとき廃藩置県。

板倉家系図:源氏足利氏流。
板倉家略図 

✤板倉勝重:通称甚平、四郎右衛門。従四位下侍従兼伊賀守。
  はじめ仏門に入り香益宗哲と号した。
  その後、家康に仕え駿府町奉行、江戸町奉行などを歴任。
  慶長6(1601)年に米津清勝、加藤正次とともに京都町奉行を勤め、のち所司代。
  家康の信頼厚く、その秀れた人格は高く評価された。
  この間、慶長14年に加増されて山城内で1万石を領した。
  その後、加増転封をかさね、延享元年(1744)に備中松山5万石に入封定着。
  14代勝弼のとき廃藩置県。

✤板倉重昌:勝重の三男、通称宇右衛門、主水。従五位下内膳正。
  家康に仕え、駿府において近習出頭人となる。
  寛永元年(1624)、父の遺領と自身の知行地を合わせ1.5万石を領した。
  同14年、島原の乱にさいし征討使として出勤、翌年正月戦死した。
  その後、転封をかさね、元禄15(1702)年に陸奥福島3万石に入封定着。
  明治元年(1868)、勝尚のとき奧羽越列藩同盟に参加し降伏。
  翌年、三河重原2.8万石に減転封された。



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