崇文の治

平城上皇による挙兵の企てを挫折させ、政治的惑乱を鎮定した嵯峨天皇の治世から、淳和を
経て仁明の承和の変「承和9(842)年」に至るまでの33年間は、天皇親政下の安定した治世で、
「崇文の治」という。

大同5(810)年9月13日、嵯峨天皇は詔を下して「薬子の乱」の後始末をつけた。

9月15日、改大同五年為弘仁元年

9月16日、参議正四位上文室綿麻呂為大蔵卿兼陸奥出羽按察使。

12月27日、六衛府のうち、左右近衛府の定員を旧に復して各400人とした。
平城上皇の変によって平安京の人々がひどく動揺し、不安の様相を呈したからである。

弘仁2(811)年5月23日、大納言正三位兼右近衛大将兵部卿坂上田村麻呂(54歳)薨。

10月11日、左右衛士府、左右兵衛府の定員を、それぞれ600人・400人の旧制に戻した。

11月28日、改左右衛士府、為左右衛門府。

弘仁5(814)年、日本最初の勅撰漢詩集・【凌雲集】全1巻が完成した。

編纂は嵯峨天皇が左馬頭兼内蔵頭美濃守の小野岑守に詔を下したことに始まる。
岑守は、式部少輔菅原清公・大学助勇山文継らと共にこの仕事を進め、決着の付きにくい
問題については、必ず天皇の意見を徴することにしていた。

播磨守賀陽豊年は、当代における文筆の大才であったが、老病のために引きこもっていた。
岑守は、かれの邸を訪れて教示を乞うた。

採択された詩編は90首、作者は23人(嵯峨作22首・豊年と岑守13首・清公4首・冬嗣3首)、
延暦元(782)年~弘仁5(814)年までの作品である。

勇山文継:河内国出身、皇太子・正良親王(のち仁明天皇)の東宮学士従四位下。
  弘仁元(810)年に同族の勇山家継・真継らと共に勇山連の姓を賜与される。
  こののち時期は不明ながら一族と共に勇山連から安野宿禰に改姓。

賀陽豊年:従四位下播磨守。
  賀陽氏(賀陽朝臣)は吉備氏の一族で上道氏の同系氏族。
  備中国賀陽郡を本拠とした豪族。
  文章博士、当代における文筆の大才。
  延暦16(797)年、皇太子・安殿親王(後の平城天皇)の東宮学士。
  弘仁6(815)年6月27日卒去、享年65。
  嵯峨天皇により仁徳天皇陵の近くに葬ることを許された。

6月1日、中務卿四品万多親王、右大臣縦二位藤原園人等、奉勅撰姓氏録、至是而成。

弘仁7(816)年、左右衛門府内に検非違使を創設した。
 検非違使の職掌は、主に京内外の巡検と盗賊・無法者の追捕であった。
 天長元(824)年、独立の機関として左・右検非違使庁を創設した。
 承和元(834)年、参議文室秋津を検非違使庁の別当に任じ、両庁の吏務を統一させた。
 承和6(839)年、従来の弾正台の追補のことを、すべて検非違使に一任させた。
 これによって、検非違使庁は京内外に対する警備権をほぼ完全に掌握した。

弘仁7年、最澄は強い憤懣のうちに空海との7年の親交を絶ってしまった。
 空海が最澄からある典籍の借覧を求められたのに応じなかった。
 のみならず、空海のもとで修行していた最澄の弟子泰範は、ついに比叡山寺に帰ることを
 拒み、真言の徒となった。
 嵯峨天皇はもとより和気広世なども、二人の不和をとりなした形跡が認められない。

弘仁9(818)年、勅撰第二漢詩集・【文華秀麗集】全3巻が撰進された。

嵯峨天皇は、再び詩集の撰進のことを大納言藤原冬嗣にはかり、大舎人頭兼信濃守の
仲雄王(系詳ならず)に命じてことに当たらせた。
凌雲集】の編者であった菅原清公安野文継もこれに加わり、大内記滋野貞主・少内記兼
播磨少目桑原腹赤が編者に抜擢された。
作者は28人、収録の詩編は148首であり、渤海使節や女流詩人の作品も収めるという。

桑原腹赤:正五位下・文章博士。
桑原腹赤 
弘仁9年、空海は嵯峨天皇から与えられた紀伊國伊都郡の高野山に道場を設けた。

弘仁10(819)年、嵯峨天皇は、大納言藤原冬嗣(北家)・中納言藤原緒嗣(式家)らに
勅を下して、「続日本紀」に続く年代の国史の編纂に着手させた。しかし、嵯峨の退位、
ついで冬嗣の死などのために、この修史事業はいつしか中だるみの状況に陥った。

次代の淳和天皇は、権大納言清原夏野・参議小野岑守・紀伝博士坂上今継(系詳ならず)・
大外記島田清田らをこれに参加させ力を入れたが、それがほぼ完成したのは仁明朝の
承和7(840)年であった。「日本後紀」というのがそれである。
緒嗣は翌年の末にこの国史を天皇に提出した。

延暦11(792)年~天長10(833)年までの年代を取り扱い、全40巻という大部のもので、
現存するのはわずか10巻だけで、あとの30巻は早く散逸してしまった。

島田清田:尾張国の地方豪族の出と伝わる。
島田清田 

養老4(720)年に「日本書紀」、延暦16(797)年に「続日本紀」、承和7(840)年に「日本後紀
ほぼ100年の間に官府の編纂による三つの国史が世に出たわけで、ここに歴朝編年史の
大裁も整えられた。これ以後も「続日本後紀」「日本文徳天皇実録」そして「日本三代実録」が
書き継がれた。これら全てをひっくるめて「六国史」とよばれる。

弘仁10年5月、最澄は天台法華宗年分学生式を作り、山上での修道について規定した。
大同2(807)年以来の天台宗年分度者の半数は比叡山寺に留まることなく離散し、若干
の者は最澄の当面の対立者である法相宗のもとに身を寄せているという状況であった。

東大寺戒壇から彼らを自由にして天台の徒たらしめるには、比叡山寺に大乗円頓戒壇を
開立しなくてはならなかった。
最澄は、ついに朝廷に表を差し出し許可を求めた。

嵯峨天皇はこの問題について僧綱の意見を徴した。
諸大寺の僧たちは、僧綱らと共にそれぞれ上表して最澄の企図に反対した。
最澄はそれらに反駁を加え、天台の主張を一層明らかにするために、「顕戒論」を起草し、
弘仁11(820)年2月にこれを朝廷に提出した。

それ以後の数年、朝廷はこの問題に決着を付けなかった。
最澄はまったく健康を損なっていた。
弟子光定は、大乗戒壇の実現のために、右大臣藤原冬嗣・中納言良岑安世・参議藤原三守
大伴国道らを説いて回った。

弘仁11(820)年、「弘仁格・式」編纂を終わる。
桓武天皇には格・式の編纂の意図があり、藤原内麻呂(北家)、菅野真道らがその選定に
当たっていたが、完了には至らなかった。
嵯峨天皇は父天皇の遺業を受け継ぎ、内麻呂の息冬嗣、藤原葛野麻呂(北家)、秋篠安人
らに命じてそれの法典化を担当させた。
弘仁11(820)年に格10巻・式40巻の編纂を終えたので、天皇はこれを諸官庁に示して
検討させ、天長7(830)年に完成した。これを「弘仁格」「弘仁式」という。

弘仁12(821)年5月、讃岐国より空海上人を奉行して勅遣して頂きたいと朝廷へ願い出た。
「讃岐国言。始自去年、隄満濃池、公大民少、成功未期。僧空海此土人也・・・百姓恋慕
如父母、若聞師来、必倒履相迎。伏請。充別當、令済其事。許之」。
空海は朝命を受け、讃岐国満濃池の修築工事を指揮し、わずか3ヶ月ほどで終えた。

弘仁13(822)年6月4日、伝燈大法師位最澄卒。ときに56歳。
死後7日目に、嵯峨天皇によって最澄宿願の大乗戒壇の設立が許された。
翌弘仁14(823)年に比叡山寺は山号を延暦寺と改め、その勅額を受けた。

その後天台宗は円仁によって一段と密教化され、その教団の力はすこぶる強大となり、
円珍・安然らの著名な後継者を次々と生み出していった。
円仁は貞観6(864)年に没したが、2年後の866年に清和天皇は唐の制にならって
最澄に「伝教大師」、円仁に「慈覚大師」の諡号を与えた。
金剛峯寺の座主観賢の度重なる要望を入れて、醍醐天皇が空海に「弘法大師」の諡号を
贈ったのは、はるか後の延喜21(921)年のことである。

弘仁14(823)年1月、嵯峨天皇は東寺を空海に与えた。
東寺は桓武天皇によって創立され、この年代においても造営を続けていた平安京内の
官寺であった。弘仁14(823)年から承和2(835)年に至る年代は、空海の全盛期である。
嵯峨天皇の空海への愛顧がかれの諸々の事業の最大の支えであった。

4月10日、帝遷冷然院。詔右大臣藤原朝臣冬嗣曰:「朕思傳位于皇太子矣。今将果宿心、
故避宮焉」。冬嗣曰:「・・・豐稔未復。若一帝二太上皇、臣恐天下難堪・・・」。

嵯峨天皇は、気鋭の兄・平城上皇とは違い、穏やかでゆったりした人物であった。
決して新政の姿勢を崩さなかったが、政治を多く公卿グループに委ねていた。
嵯峨天皇は14年間の執政にあきあきして、冷然院という離宮にうつり、右大臣藤原冬嗣に
退位のことを伝えた。

冬嗣は即座に反対した。その理由は、いま世上は連年の不作に苦しんでいるのに、
一天皇二上皇の負担に耐え難いという一事にあった。

しかし嵯峨天皇はその諫言に耳を傾けることなく、皇太弟に皇位を譲った。天皇の切に
欲したところは「山水に詣でて逍遥し、無事無為にして琴書をも翫ぶ」ことであった。

4月16日、大伴親王が即位し、淳和天皇となった。
淳和天皇は、嵯峨上皇の皇子正良親王(のちの仁明)を皇太子に立てた。

嵯峨上皇はこれから19年間、大御所として、弟の淳和の時代、嫡子の仁明の治世の
前半を見守ることになる。
兄平城上皇から深い痛手を受けた嵯峨上皇は、天皇としての淳和の位置を重く見て、
ほとんど大政に介入しなかった。

淳和天皇もごく温和な、漢字の教養に富んだ天子であった。
淳和朝は、だいたい前朝の諸政策を継ぎ、ほとんど新味は見せなかった。

嵯峨天皇系図   

坂上春子  百済王氏  橘清友  藤原総継  高見王  紀静子  貞純親王
源経基  渡辺 綱

弘仁15(824)年1月5日、改弘仁十五年、爲天長元年
この年、政府は公水を利用しながら池溝の修築を怠る農民に対して、杖80の実刑に
処することにした。

天長2(825)年、政府は国府の歳費として修理池溝料を計上することにした。

天長3(826)年清原夏野の奏上に基づき、上総常陸上野の3国を親王任国に指定。

天長4(827)年5月20日、詔中納言良岑朝臣安世・東宮学士從五位下滋野朝臣貞主等、
撰近代詩人所作之詩、勒成廿卷、名曰「経国集」。

第三の勅撰集編成の命を受けたのは、中納言兼右近衛大将春宮(仁明)大夫良岑安世
かれは、参議式部大輔南淵弘貞・東宮学士安野文継・同滋野貞主・中務大輔安倍吉人らを
編集のスタッフとした。大学頭兼文章博士菅原清公がこれに関与したのは言うまでもない。

この度は、慶雲4(707)年~天長4年(827)に至るまでの作品を集めた。
内容は、賦17首・詩917首・序51首・対策38首が収載され、作者は178人。

嵯峨上皇の第9皇女・有智子内親王の作品は「経国集」の異彩である。
文華秀麗集」にも宮廷の女人の作が収められており、これらの女性は、その後11世紀の
紫式部清少納言らの先駆者である。

三勅撰集全てが嵯峨の発議によるものであり、彼をとりまく文筆をよくする官僚の手で
編成された。三勅撰集で接しうる嵯峨天皇の詩は85首である。
嵯峨天皇は書道にも優れ、空海、それに橘逸勢を加えて三筆という。

南淵弘貞:従三位・参議。
南淵弘貞系図  

天長6(829)年、政府は諸国に命令を下して灌漑用の水車を設けさせた。

天長10(833)年2月、右大臣清原夏野、中納言直世王源常藤原愛発、権中納言藤原吉野
参議南淵弘貞文室秋津藤原常嗣、侍殿上、校讀所新撰令釋疑義起請。

明法博士額田今足(系詳ならず)の建策に従い、令文の解義の統一をはかることにした。
淳和天皇は右大臣清原夏野に命じてことに当たらせた。
文章博士菅原清公ら当代のすぐれた法家・学識者12人がこの事業に参加した。
天長10(833)年に「令義解」10卷が完了し、翌年に公布された。

天長10年3月6日、仁明天皇即位於大極殿。
淳和天皇は治世ほぼ10年にして、皇位を皇太子に譲って嵯峨上皇を喜ばせた。
その仁明天皇は、淳和上皇の皇子で仁明の甥に当たる恒貞親王を皇嗣に立てた。

嵯峨から仁明に至る王権の継承は、皇室の自律のもとに平穏に行われた。
光仁・桓武父子王朝さらに平城の場合と様相が著しく異なって、他の皇族はもとより
貴族・大官は誰も介入する者が無かった。

嵯峨上皇の権威は大きく重い。
仁明朝に至って、嵯峨源氏の多くは藤原氏の諸流に対抗する一大勢力となった。
承和11(844)年には、源常は左大臣、兄・源信は中納言、源弘・源定は参議に列した。
嘉祥元(848)年には、源常(38歳)は左大臣、良房(45歳)は右大臣、源信(39)は大納言、
源弘は中納言であった。
源氏は例外なく政治的経験に乏しく、嵯峨上皇の大家父長的庇護のもとに、朝廷の大勢力
としてにわかに抬頭した。 

太政官(嵯峨~文徳) 
附:春原五百枝  三原春上  朝野鹿取  藤原氏宗  正躬王  

嵯峨上皇は、その血族をもって王権を固めたばかりではなく、藤原氏との結託も疎かに
しなかった。特に冬嗣との関係を深め、その女源潔姫を冬嗣の次子良房に与えた。
桓武天皇は延暦12(793)年に詔を下して、藤原氏に限って二世以下の女王を娶ることを
許したのだが、天皇の娘が臣下に嫁するのは全く先例のないことであった。
冬嗣・良房の北家の流れは、政治的に極めて有利な位置をしめていたが、将来において
嵯峨源氏との対決が避けられないという状況も思い知らされていた。

天長11(834)年1月3日、改天長十一年為承和元年

1月19日、任遣唐使。以参議從四位上右大辨兼行相摸守藤原常嗣為持節大使、
從五位下弾正少弼兼行美作介小野篁為副使。

平安朝に入ってから31年ぶり第二回目の、結果的には最後(17回目)の遣唐使となった。
承和3年と翌承和4年の2回に亘り出帆するが、いずれも渡唐に失敗する。
その間に、大使常嗣の専断を憤った副使篁は、自身の病気や老母の世話が必要である
ことを理由に乗船を拒否した。
遣唐使は篁を残して、承和5(838)年6月に渡海の途についた。
大使以下の一行の総数は600人を超え、その中には天台の僧円仁らの姿もあった。
承和6(839)年、大使らは新羅船九隻を雇って、北九州に帰着した。

承和2(835)年3月21日、大僧都傳燈大法師位空海終于紀伊国禅居。ときに62歳。

承和3(836)年3月19日、外従五位下大判事明法讃岐公永直、右少史兼明法博士
同姓永成等合廿八烟、改公賜朝臣。永直是讃岐国寒川郡人、今与山田郡人外従七位
上同姓全雄等二烟、改本居貫附右京三條二坊。
永直等遠祖、景行天皇第十皇子神櫛命也。
讃岐氏系図 

閏5月25日、河内国人美濃国少目下村主氏成、散位同姓三仲等賜姓春瀧宿祢
其先遠祖出自後漢光武帝之後者也。

承和5(838)年12月15日、勅曰:「小野篁内含綸旨、出使外境。空称病故、不遂国命。
准拠律條、可処絞刑、宜降死一等、処之遠流、仍配流隠岐国」。

承和7(840)年5月8日、後太上天皇崩于淳和院、春秋55。

承和8(841)年、政府は法令を出して稲木(おだ掛け)の普及に力を入れた。
この時代に、大和国宇陀郡の人は、田の中に木を組んで、それに稲束を掛けて
秋日に乾燥させていた。
稲架:はさ、はざ,いねかけ,いなぎ,いねぎ,かかけ,おだ,あし,だて等。

5月、武蔵国男衾郡榎津郷の戸主壬生吉志福正が二人の子供の一生分の調・庸を前納。

承和9(842)年、7月15日、太上天皇崩于嵯峨院、春秋57。


藤原良門(勧修寺流)系図              藤原長良(法性寺流)系図
藤原長良&良門系図系図  
附: 上杉重房  源頼綱  藤原定房  平惟範  有馬康純  肥前国大村藩 


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愛犬・りく君

Author:愛犬・りく君
茨城県日立市十王町で
漢方整体院を経営してます。

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