薬子の変

延暦20(801)年8月10日、桓武天皇は藤原葛野麻呂北家)を遣唐大使に、石川道益
副使に任じた。
遣唐使らは延暦22(803)年4月に難波津より出航するが、船が損傷し航行不能となり、
翌年7月に再度出発した。
その一行に、仏教界の新人として朝野の注目を浴びていた最澄空海が天皇の特別の
はからいで加えられ、また橘逸勢菅原清公(道真の祖父)も加わっていた。

延暦23(804)年はとりわけ天皇の出遊が多く、まだ心身ともに衰えを見せなかった。
ところが12月25日、天皇はにわかに心身の不調を来たし、年を越えても本復しなかった。

延暦24(805)年4月6日、天皇は皇太子をはじめ参議までの太政官閣僚を宮中に招集して、
死後のことを託した。
天皇は井上皇后早良親王らの怨霊に悩まされ、日ごとに衰弱を加えて行った。

12月7日、天皇は参議兼右衛士督藤原緒嗣式家)と参議兼左大弁菅野真道
宮中に招き、「天下の徳政」を論じさせた。
緒嗣は「方今天下の苦しむところは、軍事と造作となり。この両事を停めば、百姓これ
安んぜん」と進言した。これに対して、造宮亮の職についたこともある真道は、
強くその提案に異議を唱えて譲らなかった。
天皇は緒嗣の意見を採択し、直ちに計画中の第四次蝦夷攻伐と平安宮の造営を
打ち切ることにした。

延暦25(806)年3月17日、桓武天皇はあしかけ25年におよぶ親政に疲れ果て、
内裏正殿で崩御した。享年70歳。
5月18日、安殿親王(33歳)は大極殿において即位し、元号を「大同」と改めた。
これを平城天皇という。
皇太子には12歳年少の同母弟の賀美能親王をたてた。

平城朝は、内政や征夷の面で前代に著名な業績をあげた幾多の人材を台閣に擁していた。
藤原氏の諸流は、ここでもやはり競合の関係を際正せていた。
✤ 右大臣:藤原内麻呂北家
✤ 大納言:藤原雄友南家
✤ 中納言:藤原乙叡南家
       坂上田村麻呂
       紀勝長
  議:菅野真道
       藤原縄主式家
       藤原緒嗣式家
       秋篠安人
       藤原葛野麻呂北家
       藤原園人北家
太政官(光仁~平城 

平城朝の第一歩は、即位後わずか6日しか経っていない5月24日の「六道観察使」の
創設であった。桓武朝の初政以来地方行政に関する監督に力が注がれたが、然したる
実効をあげえず、むしろ停滞していた。
平城天皇と藤原緒嗣式家)らは荒廃する地方政治に活を入れようとしたのである。
観察使の長官にはすべて参議をあて、その特典として食封二百戸が与えられた。
翌大同2(807)年4月には、東山道および畿内にも観察使が置かれ、参議を廃止した。

他方、造都と征夷で疲弊した財政緊縮のため、冗官・冗員の縮小方針を実施に移した。
このように平城天皇は初政の短い時期以来、政治に意欲的に取り組み、政治経済の
立て直しを推し進めた。

大同2(807)年の前半の朝廷の状況はいたって平穏であった。
5月20日、天皇は亡父の好みの場所であった神泉苑に行幸し、伊予親王は天皇のために
献物し、君臣の宴飲は終日におよんだ。

伊予親王の母は桓武天皇の婦人・吉子である。
吉子の父是公南家)は延暦2年~延暦8年まで、右大臣として台閣の首座を占めていた。
雄友は大同1(806)年4月に大納言となり、右大臣内麻呂につぐポストについていた。
伊予親王はこういう背景においてもすこぶる恵まれていた。
平城天皇系図 
 
安殿親王は延暦7年1月15日(15歳)、伊予親王は延暦11年2月5日(年齢は不明)、
賀美能親王は延暦18年2月7日(14歳)に元服している。
父桓武天皇も親王に三品をさずけて厚遇し、しばしばその山荘に行幸して交歓を重ねた。
平城朝において、伊予親王は中務卿の地位を占め、大宰帥をも兼ねていた。

皇族の重鎮として羽振りをきかしていた伊予親王は、にわかに暗雲に包まれてしまった。

10月28日、蔭子藤原宗成、勧中務卿三品伊予親王、潜謀不軌。
大納言藤原雄友聞之、告右大臣藤原内麻呂
於是、親王遽奏宗成勧己反之状。即繋於左近府。─【日本紀略】

10月30日、繋宗成於左衛士府、按驗反事。
宗成云:「首謀反逆是親王也」。
遣左近中将安倍兄雄・左兵衛督巨勢野足等、率兵百五十人、囲親王第。─【日本紀略】
この時、兄雄は躊躇うことなく親王の潔白を論じて天皇を諫めたという。

11月6日、徙親王并母夫人藤原吉子於川原寺、幽之一室、不通飮食。─【日本紀略】
注:「不通」者犹「不共」也。

11月12日、親王母子、仰薬而死。時人哀之。─【日本紀略】

この事件に連座して大納言藤原雄友南家)は伊予国へ流罪となった。
また、この事件に絡んで中納言・藤原乙叡南家)も解官の憂き目を見た。
彼の失脚は、さきに酒席での振る舞いが天皇から不敬と見られていたことによると言われる。
ともあれ、この事件のあおりを食って、一時に南家の大官二人が没落してしまった。
問題の人物藤原宗成北家)は流刑となったが、配流の地は不明である。

【日本後紀】のこの年の部分(卷第16)が散逸してしまったので、伊予親王が謀反の
首謀者に仕立てられた真相を究明することは困難であるが、平城天皇にして見れば、
伊予親王は皇位継承者たりうる有力な異母弟の一人であった。
なお、事件の陰に藤原仲成・薬子兄妹の陰謀があったとも言われるが、定かではない。

仲成は桓武朝初期の権臣種継式家)の長子で、薬子は仲成の妹である。
父・種継が横死しなかったならば、桓武天皇の時代に栄進の機会に恵まれていたであろう。
当時は従四位下右兵衛督の位にあり、北家の内麻呂・葛野麻呂・園人、同じ式家の緒嗣・
縄主、南家の雄友・乙叡らに後れを取っていた。
変後仲成は左兵衛督・右大弁と要職を歴任し、大同4年(809年)には北陸道観察使に
任ぜられ公卿にした。

観察使  

平城天皇の場合は薬子の存在が人々の関心を集めていた。
薬子は同じ式家の藤原縄主に嫁し、三男二女をもうけた。
そしてその長女が平城の東宮時代に選ばれてその宮に入った。
これがきっかけとなり、薬子は安殿太子に近づき、深い関係を結ぶに至った。

桓武天皇はこの事情を嫌い、薬子を東宮から退けたと伝えられている。
安殿親王が即位すると、二人の仲は元に戻り、尚侍へと進み天皇の寵愛を一身に受け、
兄の仲成とともに専横を極めた。

平城天皇に、皇后・夫人という称号を持つ者が無いのは、主として人妻薬子の存在による
ものと言われている。
妃の朝原内親王大宅内親王及び甘南美内親王はともに平城天皇の異母妹である。
東宮時代の妃帯子は、光仁天皇の寵臣藤原百川式家)の娘で、緒嗣とは兄妹の関係に
あるが、延暦13(794)年5月に没している。
延暦13(794)年は、平安遷都と第二次蝦夷征伐が決行された重大な画期であった。
平城天皇の後宮には、ほかにも伊勢継子葛井藤子大中臣百子紀魚員らがいた。

伊予親王事件を契機に、天皇と薬子・仲成の結びつきは更に強固なものとなったらしく、
薬子は従五位から一挙に従三位の官に準ずる位階に昇進した。
平城天皇には、天皇の外戚という王権に対する特殊な優位性を持つ者がいなかった。
そこに、薬子とその兄仲成が付け込んだのである。

大同4(809)年4月1日、平城天皇は詔を発して皇太弟への譲位の意を表した。
去年の春から寝膳に不安となり、なかなか回復しなかったためである。
天皇は身体の不調を早良親王伊予親王の亡霊の祟りによるものに帰して悩み続け、
王位を離れさえすればその禍から免れるのではないかと考えた。
無論、側近の薬子・仲成らの一派は強く退位に反対した。

平城天皇の申し出に対して、皇太弟はいくども表を呈して固辞したが、許されなかった。
4月13日、賀美能親王は、大極殿において即位し、嵯峨天皇となった。
翌日、平城上皇の皇子高岳親王を皇太子に立てた。

4月20日、嵯峨天皇は勅を出して、観察使の食封を停止し、外任(国司)を兼ねさせ、
公廨稲の配分に預からせた。
【日本紀略】には「頃年諸国損弊、百姓困乏。〈云々〉。今支度公用、頗有欠少。
宜暫返納、令兼外任、以彼公廨、代此食封」とある。
しかしこの観察使制度の見直しは、平城上皇の感情を刺激し、対立関係を生じさせた。

12月4日、平城上皇は水路をとって平城古京に行幸した。
【日本紀略】には「太上天皇、取水路、駕双船、幸平城。于時、宮殿未成、権御故右大臣
大中臣朝臣清麻呂家」とある。
また、【日本後紀】には「天皇遂傳位、避病於数処、五遷之後、宮于平城」とある。

上皇による平城古都の選定は、上皇の復位をもくろむ薬子・仲成の助言があった
からだと言われている。
いまや上皇の居所は、反嵯峨朝廷の策源地となった。

大同5(810)年1月1日、廃朝。以皇帝不予也。─【日本紀略】
嵯峨天皇は、おそらく旧年末に発病し、元旦には恒例の朝儀を廃せざるを得なかった。

2月8日、前年9月19日に中納言に上せたばかりの藤原園人北家)を大納言に起用して
台閣を強化した。

3月10日、天皇直属の蔵人所を創設し、春宮時代からの側近左衛士督・藤原冬嗣北家)と
左近衛中将・巨勢野足を蔵人頭に任命した。

これまでは、薬子が天皇の秘書である内侍司の長官(尚侍)であり、蔵司の長官である
尚蔵の職務も代行していた。
蔵人所の設置は平城上皇側に機密がもれないようにすることも目的であったという。

6月28日、天皇は詔を発して観察使を廃し、参議を復活した。
【日本紀略】には「宜罷観察使、復参議号、封邑之制、亦仍旧数」とある。
観察使制は、創置以来四ヵ年の、短いが、地方行政上にかなりな実績を残して
その歴史を閉じた。

7月13日、天皇は再び病臥し、その状態は記録によればほぼ一ヶ月続いている。
【日本紀略】の7月13日条には「聖躬不豫也」、同18日、20日条には「天皇不予」、
30日条には「聖体不予也」とある。

7月27日、朝廷は天皇の平復のために、早良親王伊予親王・藤原吉子の追福と
いうことで、それぞれ百人・十人・二十人の度者を定めた。

9月6日、平城上皇は平安京を廃して皇都を平城の故地に移すことを命じた。
当時の太上天皇には天皇と同様に国政に関与できるという考えがあった。
奈良時代の孝謙上皇は道鏡との関係を諌められたことで淳仁天皇と不仲になり、
突然保良宮から平城京に帰り、五位以上の全員を平城宮の朝堂院に集めて
「・・・国家の大事と賞罰は、朕がする」と宣命を下し、後に称徳天皇として再即位した。

このことは嵯峨天皇にとってまさに青天の霹靂ともいうべき出来事であったが、ひとまず
上皇の命に従うとして、坂上田村麻呂藤原冬嗣紀田上らを造宮使に任じた。

9月10日、遷都のことに縁りて、人心が大いに動揺したので、嵯峨天皇は使者を遣して
伊勢近江美濃の三国とを固めさせた。
三関と都の位置関係図 

同時に参議藤原仲成を捕らえて右兵衛府に監禁し、宮中の警備を厳重にした。
その上で、詔を発して尚侍薬子の官位を剥奪し、参議藤原仲成を佐渡権守に左遷した。
同じく参議藤原真夏北家)は伊豆権守に、多入鹿は讃岐守に左遷された。

多氏:日本最古の皇別氏族、神武天皇の皇子・神八井耳命の後裔とされる
多入鹿系図 

9月11日、藤原真夏北家)や文室綿麻呂らが平城京から召還されたが、綿麻呂は
上皇派と見なされ左衛士府に拘禁された。
また大外記上毛野穎人が平城宮から馳せ来たって、「太上天皇今日の早朝川口道
取って東国に入れり。凡そ其の諸司并びに宿衞之兵悉く皆從いぬ」という内容の、
平城上皇の動静を天皇に密告した。

天皇は大納言坂上田村麻呂らを遣して、「軽鋭卒」を率いて美濃道を固めさせ、
東国に入ろうとする上皇の軍を迎え撃たせることにした。
出発に当たって田村麻呂は、天皇に対して拘禁中の文室綿麻呂の起用を申し出た。
天皇はそれを入れて、正四位を授け、特に参議に任じて田村麻呂に同行させた。
綿麻呂は武芸の人で、延暦年間にしばしば蝦夷征伐に出陣していた。

他方、朝廷は宇治・山崎の両橋と与渡(淀)津に屯兵を配置して、平安京南部の防備を固めた。
その夜、朝廷は官人を遣わして、仲成を禁処において射殺させた。

一方、嵯峨天皇が詔を発して薬子の位官を奪い、仲成を左遷したことを知った上皇は、
激怒のあまり、みずから東国に赴き、大兵を集結して朝廷に反撃しようとした。
中納言藤原葛野麻呂北家)・左馬頭藤原真雄北家)らは上皇に対して東国入りを
思い止まるように諫めた。
しかし上皇は、薬子とともに駕に乗じて平城京から発進した。

9月12日、平城上皇と薬子の一行は大和国添上郡越田村まで来たが、朝廷の兵に
前途を遮られたことを聞き、為すところを知らず、やむなく平城宮に引き返した。
平城上皇は頭をまるめて出家し、薬子は毒を仰いで自殺した。

越田村 

9月13日、嵯峨天皇は詔を下して、事件の関係者らに寛大な措置をとる旨を明らかにした。

【日本後紀・卷第二十】:
「・・・太上天皇ヲ伊勢爾二行幸セシメタル諸人等、法之隨二罪賜フベク有トモ、
所念有二依テナモ、免賜ヒ宥賜フ。
又、中納言藤原朝臣葛野麻呂ハ、悪行之首藤原薬子ガ姻媾之中ナレバ、重罪有ベシ。
然多入鹿等申ク、雖言不納トモ、諫争コト懇至ト申二依テナモ、罪ナヘ賜ヒ勘賜ハス。
又、藤原朝臣真雄ハ、身命ヲ棄忘テ諫争タル事、衆人ヨリ異二有二依テナモ、譽賜ヒ勤賜ヒ、
冠位上賜ヒ治賜ハクト宣。・・・」

嵯峨天皇は、上皇の王権への反逆の罪を追及しなかたとは言え、上皇の皇子高岳親王から
皇太子の地位を奪った。
その後釜には異母弟の中務卿三品大伴親王(のち淳和天皇)が据えられた。

9月19日、年号を「弘仁」と改めた。

平城法皇は変の後も、「太上天皇」の称号はそのままとされ、朝覲を受けるなどの名誉ある
待遇と相当の宮廷費を受けた。
淳和即位のあくる年の弘仁15(824)年7月7日、平城上皇は奈良の旧京で寂しく崩じた。
享年49歳。

藤原真夏系図:山城国宇治郡日野を伝領地として日野家流とも呼ばれる。
藤原真夏系図    



日本の歴史      日立市川尻町-漢方整体院
プロフィール

愛犬・りく君

Author:愛犬・りく君
茨城県日立市十王町で
漢方整体院を経営してます。

最新記事
カテゴリ
検索フォーム
リンク
Fcカウンター
QRコード
QR