氷上川継事件

光仁朝は、施政10年にして、ようやく「官を省き役を息める」という思い切った政策を
打ち出して道鏡時代の悪政からの脱却を示し始めた。
その間に、藤原良継藤原百川といった、光仁父子を帝王の座に押し上げるのに機略を
働かせた政客が世を去った。
ここに至って、天皇は誰はばかることなく、人材を太政官に起用できるようになった。

宝亀11(780)年2月1日、太政官のスタッフには長く中枢部から疎外されていた古代の
名士石川名足、万葉末期の歌人でもある大伴家持が加えられ、光仁の外戚関係の
紀広純も抜擢され

右大臣正二位大中臣清麻呂宝亀2(771)年3月13日~
内大臣従二位藤原魚名(北家宝亀10(779)年)1月1日~
大納言従三位石上宅嗣宝亀11(780)年2月1日~
中納言従三位藤原田麻呂式家〃 〃 〃
従三位藤原継縄(南家)〃 〃 〃
参 議従三位藤原浜成(京家宝亀3(772)年4月20日~
従三位藤原是公南家宝亀5(774)年5月5日~
正四位上藤原家依(北家)宝亀8(777)年10月13日~
正四位下大伴伯麻呂宝亀9(778)年1月9日~
従四位上藤原乙縄南家宝亀10(779)年9月13日~
従四位下藤原小黒麻呂(北家)宝亀10(779)年12月30日~
正四位下大伴家持宝亀11(780)年2月1日~
従四位下石川名足〃 〃 〃
従四位下紀広純〃 〃 〃

3月16日にはにあたる正四位下神王を参議に加え、いよいよ王権の独自性を強め始めた。
藤原南家略図 1-2 

その矢先の3月22日、陸奥国から急使が東北辺境での由々しき異変を朝廷にもたらした。
蝦夷の住地に接する伊治(栗原)郡の大領・伊治公呰麻呂が、伊治城で参議で陸奥按察使兼
鎮守府副将軍の紀広純を殺害し、更に多賀城を攻略したというのである。

「官を省き役を息める」という民政改革に手を下したばかりなので、老天皇は内治と征討の
両面に精励したが、気力尽き果てて、反乱後1年にして病を理由に位を皇太子に譲った。

天応元年(781)年4月3日、父の譲位を受けて山部親王が即位し、桓武天皇となった。
皇太子には同母弟の早良親王をたてた。
光仁天皇は、同年12月23日に崩御した(享年73歳)。

天応2(782)年閏正月10日、大和乙人という者が密に武器を帯びて宮中に闖入したが、
発覚されて捕らえられる事件が起きた。
乙人は官の訊問を受けて、その主人・氷上川継を首謀者とする謀反の計画を自白した。
証言によると、川継は一味を集めて北門から皇居に押し入り、朝廷を倒そうと企んでいた
というものであった。
翌11日、川継を召喚する勅使が派遣された。川継はこれに気づき姿をくらまそうとしたが、
14日に大和国葛上郡に潜伏しているところを捕らえられた。

父母ともに天武系、わけても生母が聖武天皇の娘であるという関係からすれば、
川継は、光仁・桓武の父子王朝の成立に強い不満を持っていたであろう。
おのれこそが正統の皇位継承者だと自負していたかもしれない。

川継の罪は死罪に値するところ、光仁天皇の喪中であるという理由で、
罪一等を減じられて妻・法壱とともに伊豆国三島(田方郡)に流された。
母の不破内親王は娘たちとともに淡路国へ流された。
さらに法壱の父である参議藤原浜成も連座して参議を解任された。
藤原京家略図1-2 

浜成は延暦9(790)年の死没まで太宰員外師に据え置かれ、ついに中央政界に復帰する
ことができなかった。藤原諸流の中の京家ははやくも没落した。

また、三方王(系詳ならず、舎人親王の孫か)・山上船主(系詳ならず、山上憶良の子か)・
参議大伴家持・右衛士督坂上苅田麻呂らがそれぞれ刑罰を受けた。

間もなく家持・苅田麻呂は、嫌疑がはれたのか、同年5月には元の地位に復している。
しかし、三方王、その妻弓削女王(父は三原王、祖父は舎人親王)、山上船主は、
天皇を呪詛したとして船主は隠岐に、三方は妻の弓削女王とともに日向に流された。

同年6月には太政官の首席を占めていた左大臣兼太宰帥藤原魚名が罷免され、
累は三人の息子にも及んだ。藤原魚名はその翌年にこの世を去った。
藤原北家略図1-2 

川継は配所で20年以上過ごした後、延暦24(805)年3月に赦免され、翌年には従五位下に
復した。弘仁3(812)年には、伊豆守として再び伊豆国へ赴任することになる。


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Author:愛犬・りく君
茨城県日立市十王町で
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