宇佐八幡神託事件

道鏡は河内国若江郡(大阪府八尾市)の弓削に生まれ、若年の頃に法相宗の
高僧・義淵の弟子となったという。

義淵
は法相宗の巨匠で僧正となり、行基(東大寺の勧進)・道慈(大安寺流の祖)・玄昉
良弁(東大寺の開基)ら、八世紀半ばまで有名な僧は、皆その弟子だという。

路真人豊永
を師として儒学も勉強したという。
路氏は橘氏と同族。路跡見→虫麻呂→豊永→長田麻呂→・・・。

天平19(747)年頃には、良弁の下で働いていたが、何時のころからか、この道鏡は宮中に
出入するようになった。おそらく、彼の師であり、且つ東大寺の造営に大きな役割を果たし
ていた良弁の推薦があったのであろう。

仲麻呂淳仁天皇を擁して権力を欲しいままにしていた頃、道鏡はすでに内道場
禅師になっていた。

藤原仲麻呂の乱後、大臣禅師となった道鏡は、天平神護元(765)年秋、称徳女帝とともに
紀伊の玉津島(和歌浦)に遊び、帰途河内の弓削にまわった。
弓削寺に礼拝した称徳天皇は道鏡を太政大臣に任命し、故郷に錦を飾らせた。

翌766年冬、道鏡は法王の称号を得た。
同じ日、道鏡の腹心の円興基信にも、それぞれ法臣と法参議という肩書が与えられた。
僧侶が王と呼ばれるのみならず、大臣・参議の席まで占めるとは前代未聞であった。
道鏡の後ろ盾を受け、実弟弓削浄人ら近親十数人も、あっという間に五位以上の高官に
なり、人々をあきれさせた。
基真は俗姓物部氏、道鏡とは同祖になる。
       物部奈洗→堅石→・・・足人→宅麻呂→基信→

後に称徳女帝と道鏡の七年を回顧した者は、皆「政刑日に峻しく、殺戮みだりに加えき」とか、
「軽軽しく力役を起し、務めて伽藍を繕えり。公私彫喪して国用足らず」と評している。

造寺・造仏に専念する称徳女帝と道鏡は、官人貴族たちからどう思われようと、
権威と権力の座にいた。
二人に自ら進んで阿る者も、少なくはなかった。

神護景雲3(769)年5月、大納言兼大宰帥の弓削浄人大宰主神習宜阿曾麻呂
「道鏡を天皇にすれば天下が太平になるであろう」という内容の宇佐八幡宮の神託を
奏上した。
中臣習宜氏は物部氏の一族で、饒速日命の孫・味饒田命の後裔と称した。

称徳女帝は迷った。いかに道鏡を敬愛しているとは言え、また道鏡を法王にし
法王宮職という官庁まで新設して、天皇同様の待遇を与えていたとは言え、
天皇の位につけるには、さすがに勇気が要った。
大和朝廷以来の貴族たちは、とても同意すまい。

しかしもう一度朝廷から正式な使者を立て、神に念を押すことができれば、
反対者たちも有無が言えなくなるはずである。

その場合の使者は、明い浄い心の持ち主というか、誰からも清廉潔白と見られている
人物でなくてはならない。
称徳女帝が選んだのは37歳になる近衛将監・和気清麻呂であった。

和気氏略図

清麻呂
とその姉広虫とは、備前国和気郡の豪族の出てある。
広虫は紫微中台の官人だった夫に死別してから、尼法均と名乗って称徳女帝に仕え、
謙虚な、慈悲心に厚いその人柄を深く信用されて、男性なら僧綱にあたる大尼という
高い地位を与えられていた。

そうした関係から、弟の清麻呂の剛直な性質や仲麻呂の乱に中衛府の武官として
活躍した経歴も、称徳女帝によく知られていた。

称徳女帝から、清麻呂を使者としたことを聞いた道鏡は、清麻呂を法王宮職に招待し、
そつなく大役を果たしたら大臣にしてやろう、と言わんばかりの口ぶりだったという。

道鏡の儒教の師であった路真人豊永は、宇佐へ派遣されることになった和気清麻呂に
向かって、「彼奴が天皇になるようでは、わたしはどの顔下げて出仕できよう。
同志二、三人と山中に逃れて、現代の伯夷になるだけだ」と慨嘆したという。

伯夷のように飢死した方がましだと言うのだが、この言葉は思い悩んでいた清麻呂を
激励することになったらしい。

使者任命は夏のはじめだったらしいが、宇佐まで往復すると、秋もふけていた。
清麻呂が聞いてきた神託は、帰京後、大尼法均を通じて奏上された。
「わが国は開闢以来、君臣定まれり。臣をもて君とすること、いまだこれあらず。
天つ日嗣には、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」
称徳女帝はさておき、道鏡は激怒した。神託を偽ったというのである。

清麻呂は直ちに別部穢麻呂と改名させられ、因幡員外介に左遷と決まったが、
出発しない内に、更に官位一切を剥奪して大隅に流すことになった。
姉の法均も還俗させられて、別部狭虫と名付けられ、備後へ流罪になった。

翌770年4月、由義宮で歓楽の日々を過ごしていた称徳女帝は、いささか五体の不調が
気になって平城京に帰った。そしてそのまま病みついてしまったのである。

道鏡らの看病にもかかわらず病状は日ましに悪くなった。8月3日、称徳天皇は後継者を
指名しないまま、数々のスキャンダルに彩られた53歳の生涯をとじた。

崩御後間もなく、宮廷の奥深くで皇嗣選定のための内密の会議が開かれた。
法王道鏡はそこに姿を見せていなかった。
右大臣吉備真備長親王の子で既に臣籍に移っていた大納言文屋浄三、次いで
その弟参議文屋太市を強く推挙した。
長親王 
 

だが、左大臣藤原永手・内大臣藤原良継らは、天智天皇の孫にあたる大納言白壁王
支持して譲らなかった。
藤原百川は、この王の擁立のために舞台裏で大変な奔走を続けた。 

藤原氏の足並みの揃った力の前に、孤立無援の老いたる真備は敗退した。
藤原氏の大官らの手で女帝の遺書が書かれ、そこに、白壁王を皇嗣に定める旨が
明らかにされた。

称徳女帝の死は直ちに法王道鏡の失脚を運命づけた。
道鏡が統御したはずの官大寺はもとより、どこにも騒ぎは起らなかった。

亡き女帝の陵下に追福の勤行を続けていた傷心の道鏡は、坂上苅田麻呂の讒言に
よって、(8月21日)造下野国薬師寺別当としてあっさり平城京から追放されてしまった。

「坂上苅田麻呂の讒言」ついて、【続紀】には「以告道鏡法師姦計也」とあるのみで、
その内容については一言半句も触れていない。

9月6日、和気清麻呂が大隅国から召還された。

10月1日、62歳の白壁王は大極殿で即位して光仁天皇となった。
元号は「宝亀」と改められた。

翌宝亀2(771)年3月、和気清麻呂は従五位下に復位し、9月には播磨員外介に次いで
豊前守に任ぜられて官界に復帰した。
その後,民部大輔,摂津大夫などを経て、延暦7(788)年には中宮大夫に任ぜられて
皇太夫人・高野新笠にも仕えた。
延暦12(793)年には造宮大夫に任ぜられ、平安遷都に尽力した。

宇佐八幡宮 



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Author:愛犬・りく君
茨城県日立市十王町で
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