藤原仲麻呂の乱

天平勝宝元(749)年7月、孝謙天皇の即位に伴い、仲麻呂は正三位参議式部卿から
中納言を経ず、左大臣諸兄・右大臣豊成に次ぐ大納言となった。

8月10日、紫微令と中衛大将を兼ね、更に翌年には中務卿も兼ねた。
天皇の命令は中務卿として、皇太后の言うことは紫微令として、左右大臣以下に伝える
係りとなり、また中衛大将としては親衛軍を掌握することになった。

光明皇太后と孝謙天皇の信任を背景に仲麻呂は政権と軍権の両方を掌握して
左大臣橘諸兄の権力を圧倒した。

【続紀】には「枢機の政、独り掌握より出で、これにより豪宗・右族みなその勢を妬む」とある。

東大寺の造営にも、光明皇太后 ─ 紫微令という線から、当然熱心であった。
孝謙天皇即位後は、おおむね自分の与党を造東大寺司に送り込み、近江や越前など
北陸諸国に開拓され始めた広大な東大寺領荘園の経営にも熱心であった。

天平宝字元(757)年7月、橘奈良麻呂の乱によって、反対派を一掃した仲麻呂は
太政官の首座に就き、名実ともに最高権力者となった。

天平宝字2(758)年8月、孝謙天皇は皇太子大炊親王を立てて淳仁天皇とした。
仲麻呂は大保(右大臣)に任ぜられ、「恵美押勝」という名を賜与された。
また実益としては、功封3千戸、功田1百町を手に入れ、鋳銭と出挙の権利も与えられた。
鋳銭と出挙は、言うまでもなく本来天皇の権限で、私的には厳禁されていた。

天平宝字3(759)年11月、仲麻呂は帝都はいくつもあった方が帝王の尊厳を増すと考えて、
藤原氏と縁が深い(父武智麻呂も仲麻呂も近江守)近江国の琵琶湖南端の石山寺付近に
保良宮の造を開始した。

天平宝字4(760)年正月、仲麻呂は皇族以外で初めて従一位太政大臣に任じられた。
しかし、この年から朝廷内部での仲麻呂の権力は孤立し始めた。
6月7日、光明皇太后が60歳で崩御、更に6月17日には弟の兵部卿・乙麻呂も死去した。
藤原仲麻呂政権の後ろ盾であった光明皇太后、及び同政権内で兵部卿として軍事面を
担っていた乙麻呂の相次ぐ死去は、政権への大きな打撃となった。

天平宝字5(761)年4月、仲麻呂政権の支柱だった参議・巨勢堺麻呂が死去した。

10月、平城宮を改造するために淳仁天皇と孝謙上皇を近江国の保良宮に行幸させ、
唐の制度にならって保良宮を「北京」とした。
そこで、孝謙天皇の病気になったことが、道鏡との仲の発端であった。

天平宝字6(762)年正月4日、仲麻呂は子の真先氷上塩焼とともに参議に任じた。

2月2日、仲麻呂は正一位となり、近江の鉄山二ヵ所も手に入れた。

一方、この頃孝謙上皇は看病禅師道鏡を側に置いて寵愛するようになった。
保良宮で孝謙天皇が道鏡を「寵幸」し始めた時、女帝は四十台の半ばであった。
そこに現れた道鏡は、五十を幾つ過ぎているであろうか。

学問でも女帝は事ごとに教わるばかりでなく、永年の禅行に鍛えられた不思議な
魅力を彼は持っていたのである。女帝が病い癒えたのちも師と仰ぎ、孤独な心を
寄せるに至ったのも、また無理からぬことであった。

仲麻呂は淳仁天皇を通じて、孝謙上皇に道鏡との関係を諌めさせたが、
これが返って孝謙天皇を激怒させた。

5月23日、孝謙上皇は突然平城京に帰り、法華寺に入った。
淳仁天皇も平城宮の中宮に帰った。

6月3日、孝謙上皇は五位以上の全員を平城宮の朝堂院に集めて「・・・だから朕は
出家する。ただし今後、今の天皇は、神々の祭や小さな事に限って裁決するがいい。
国家の大事と賞罰との両者は、朕がする」と宣命を下した。

6月23日、尚蔵・尚侍を務めて仲麻呂と孝謙上皇の間のパイプ役になっていた
正室の藤原袁比良が死去した。
藤原袁比良の死去は仲麻呂政権の衰退の原因のひとつとも言われる。

更に7月と9月には、仲麻呂政権の支柱だった参議・紀飯麻呂石川年足が相次いで死去た。

12月、仲麻呂は子の訓儒麻呂朝狩を石川年足の弟の石川豊成らとともに参議に
任じて政権の補強を図った。

藤原仲麻呂 

親子四人が公卿とは前代未聞であり、くすぶる反対派の人々の憤激を買っていた。
故式部卿藤原宇合の次男・宿奈麻呂(のち良継)も特に憤激した一人であった。

彼は兄広嗣が死んだため、式部卿家の代表となっていたのに、47歳にもなって
参議にもなれなかった(当時の官位は従五位上造宮大輔)。

宿奈麻呂は石上宅嗣佐伯今毛人大伴家持らと謀って仲麻呂暗殺計画を練ったが、
いつもながら計画は仲麻呂側に漏れ、四人とも逮捕された。
宿奈麻呂は単独犯行を主張、八虐の一つである大不敬との罪により解官の上、
姓も剥奪された。他の三人は釈放されたが、のちに九州に左遷されることになる。

天平宝字7(763)年9月、仲麻呂と親しかった少僧都慈訓は取締り不行届きのかどで
僧綱を解任され、代わって道鏡が少僧都となった。

天平宝字8(764)年正月21日、正四位下吉備真備が長らく仲麻呂の支配下にあった
造東大寺司の長官に就任した。
吉備真備は天平勝宝2(750)年、仲麻呂のために右衛士督・右京大夫から筑前守に
左遷され、その後も肥前守・遣唐副使・太宰大弐というように、ずっと都から
遠ざけられていた。

この日の人事では仲麻呂も頑張って、自派の仲石伴を左勇士率(左衛士府長官)、
大原宿奈麻呂を左虎賁翼(左兵衛府次官)、仲麻呂の六男薩雄を右虎賁翼に
任ずるなどして衛府の兵を掌握し、また七男の辛加知を越前守、八男の執棹
美濃守に任じて、それぞれ愛発関・不破関を手中に置いた。

更にこの時には太宰大弐に佐伯毛人(系詳ならず)、少弐に石上家嗣、大宰府直轄の
営城監に佐伯今毛人、薩摩守に大伴家持という発令があったが、石上家嗣以下三人は
明らかに左遷であった。
仲麻呂派の毛人に九州でこの三人を監視させようとする意図さえ見られた。

仲石伴:当初石津王(系詳ならず)、藤原仲麻呂の養子となり、「藤原朝臣」姓を
与えられ臣籍降下、のち「仲真人」姓に改姓する。
大原宿奈麻呂:右大臣・大中臣清麻呂の子。

6月、仲麻呂政権の支柱だった参議授刀督兼伊賀近江按察使藤原御楯が死去した。

9月2日、淳仁天皇は仲麻呂を「都督四畿内・三関・近江・丹波・播磨等国兵事使」に任じた。
都督使の仕事は、以上諸国(計10ヵ国)の兵士を国ごとに20人ずつ都督衛(仲麻呂邸)に
集め、5日ずつ教練することだった。

仲麻呂は太政官の大外記高岳比良麻呂(大学頭・高丘河内の子)に、諸国あて兵士の
動員令を書かせた。人数は一国あたり600人にしろといった。
比良麻呂は驚愕した。許されているのは一国あたり20人のはじである。

9月11日、高岳比良麻呂は禍の身に及ぶことを恐れ、孝謙上皇に密告した。

孝謙上皇は直ちに少納言山村王用明天皇の玄孫)を淳仁天皇のいる中宮院に派遣、
駅鈴と天皇御璽を回収しようとした。
急報によって仲麻呂は、三男訓儒麻呂らに山村王の帰途を襲わせた。
しかし山村王を護衛していた授刀少尉坂上苅田麻呂や授刀将曹牡鹿嶋足らが応戦、
訓儒麻呂を射殺した。

仲麻呂の邸へは勅使として授刀舎人の紀船守が派遣され、逆賊仲麻呂父子から
官位・俸給一切を剥奪し、藤原とは名乗らせぬとの勅が宣言された。
邸内から中衛将監の矢田部老(系詳ならず)が甲を着、馬に乗って戦いを挑んで来たが、
逆に船守らに射殺された。
矢田部氏は物部氏の一族で、十千根命の弟・大新河命の後裔であるという。

その晩仲麻呂は、一家の者と部下を率いて邸を脱出、宇治から近江の保良へ急いだ。

孝謙上皇は当時造東大寺司長官であった吉備真備を召して従三位に叙し、中衛大将と
して仲麻呂誅伐を命じ、直ちに討伐軍が仲麻呂の後を追った。
吉備真備はこの年正月に70歳になっていたが、在唐中に取得した軍学の知識を買われた。

討伐軍には授刀衛を中核とする衛府の兵、漢氏・秦氏ら帰化人系の諸氏の武力、更に
藤原良継はもとより、仲麻呂に反感を持つ藤原氏をはじめ、他の諸貴族も悉く動員された。
藤原良継の弟で備前守の蔵下麻呂は仲麻呂討伐の将軍に任命された。

軍兵の動員と同時に、吉備真備は正倉院から大刀88振・弓103張・甲冑100領・矢筒96具
などを取り出して、東大寺司に働いていた工匠や役夫に装着させ、討伐軍に加えた。
造東大寺司は大量の器材・人員を抱えており、一朝事ある時は巨大な軍隊になる。

たまたま近江へ造池使長官として出張していた淡海三舟は、太政官符により
兵士を動員しようとしていた使者達を、池を造るために徴集してあった役夫達に
命じて逮捕させた。

田原道をとって急行した山背守日下部子麻呂、衛門少尉佐伯伊太智らは、
瀬田の長橋に先に到着、これを焼いた。
日下部子麻呂:系詳ならず、日下部宿禰老の同族と思われる。

東山道へ脱出する道を断たれた仲麻呂は、子息辛加知が国司になっている
越前国に入り再起を図ろうとし、琵琶湖の西岸を北進、14日夜には高島郡
前郡司・角家足の家に泊まった。
近江は仲麻呂がこの20年間、国司の長官を勤めていた国であり、高島郡に
鉄穴(製鉄所)を所有し、角家足はこの鉄穴を管理する地方豪族であった。
その夜、大きな流星が角家足邸のかなたの空に消えたという。

佐伯伊太智らは更に馳せて越前に向かい、まだ事変を知らぬ国守の辛加知を斬り、
授刀舎人物部広成らに愛発関を固めさせた。
物部広成:姓は「物部直」、武蔵国入間郡出身、物部兄麻呂の末裔と思われる。

仲麻呂は精兵数十人を先発させ愛発関を押さえようとしたが、物部広成に撃破された。
それと知らず、仲麻呂は本隊を率いて船に乗り、琵琶湖東岸に向かった。
しかし湖が荒れたために塩津から上陸し、山道を愛発へ進んだが、やはり
佐伯伊太智らに撃退された。

仲麻呂の乱

行先をすべて塞がれた仲麻呂らは、高島郡に引き返し、古城のある三尾崎によって、
瀬田から北上して来た佐伯三野大野真本らの軍勢に必死に応戦した。

激戦は昼から夕方まで続き、討伐軍も疲労困憊した。
だが18日、討賊将軍藤原蔵下麻呂の率いる援軍が到着、水陸両方から攻撃を
加えたので、勝野へ退いて守った仲麻呂の軍もついに敗れた。

仲麻呂は妻子数人と湖上に舟を出したが、兵士石村石楯に襲われて斬殺された。享年59歳。
氷上塩焼ら仲麻呂の一味の30~40人も、みな湖畔で処刑された。
近江への脱出以来9日目、9月19日のことであった。
石村石楯:氏姓は「石村村主」のち「坂上忌寸」、鎮守府軍曹・石村高足の子。
石村(村主)氏は三河国碧海郡に定着した漢系渡来氏族。

6男刷雄だけは年少から仏道修行をしていたとの理由(唐に留学して鑑真と共に帰国した
という経歴を持つ)で死を免じられ、隠岐国に流されることとなった。
のち宝亀3(772)年に赦され、桓武天皇の時代には大学頭や陰陽頭を歴任した。

また当時4歳だったと思われる11男徳一も処刑されず東大寺に預けられて出家し、
のちに筑波山知足院中禅寺の開山となった。

仲麻呂の傀儡であった淳仁天皇は乱後1ヶ月で退位させられ、淡路島に監禁されていたが、
翌年10月、垣を越えて逃れ出ようとして国守の兵に遮られ、間もなく死んだ。
33歳であった。その兄船王・池田王も、乱後それぞれ隠岐・土佐へ流された。

一方、前年少僧都となったばかりの道鏡は、一躍大臣禅師として、政界に登場した。
孝謙上皇も復位して称徳天皇となり、道鏡を重用する仏教中心の政治が
約7年間続くことになる。


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愛犬・りく君

Author:愛犬・りく君
茨城県日立市十王町で
漢方整体院を経営してます。

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