橘奈良麻呂の乱

天平17(745)年5月11日、紫香楽宮から平城宮に帰還した聖武天皇は、8月末、
また難波宮に行った。そしてそこで、ついに重態になった。

9月19日、天智・天武両天皇の孫たちはすべて難波宮に召集された。
言うまでもなく、皇位継承問題のためてあった。
光明皇后の産んだ一人娘阿倍内親王は既に7年前に皇太子に指名されていた。
女性の皇太子などは前代未聞であった。
元明・元正両代の女帝は中継ぎの天皇であったが、阿倍内親王への譲位はそうではない。
こんな状態のままで、大和朝廷以来の貴族層が納得するはずがなかった。
そういう不満が満ちていたことは天皇・皇后にも分かっていた。
だから聖武天皇の心身がいかに疲労していても、皇位をなかなか皇太子に
譲ることが出来ずにいた。

阿倍内親王を皇嗣と認めない奈良麻呂多治比国人多治比犢養小野東人
佐伯全成らを勧誘して黄文王を皇嗣に擁立しようとした。
だが、一週間後、聖武天皇は回復して、平城京に戻った。
当時、奈良麻呂の官位は正五位上摂津大夫であった。

天平勝宝元(749)年7月、孝謙天皇の即位に伴い、奈良麻呂は大伴兄麻呂
藤原清河とともに参議に任ぜられた。
仲麻呂は参議式部卿から中納言を経ず、左大臣諸兄・右大臣豊成に次ぐ大納言となった。

11月の孝謙天皇即位大嘗祭の時、奈良麻呂は再び黄文王擁立のついて佐伯全成
誘ったが、拒絶され実行することが出来なかった。

天平勝宝7(755)年11月、左大臣・橘諸兄の使っていた佐味宮守という者から、
諸兄が酒宴の席で朝廷を誹謗したとの密告があった。
聖武太上天皇はこれを問題にしなかったので、事は表沙汰にならなかったが、
後日、耳にした橘諸兄が不徳の至りと職を退いた。

天平勝宝8(756)年4月、貢納の金を携えて陸奥から上京した佐伯全成に対して
三度謀反の計画を謀らった。
この時奈良麻呂は大伴古麻呂も誘い、大伴・佐伯両氏の長老とともに黄文王
立てて天皇にしたいと告げたが、佐伯大伴両氏はともにこれを拒絶した。

5月2日、聖武太上天皇が崩御する。太上天皇の遺言により道祖王が立太子された。
道祖王は故新田部親王の子で、位は従四位上で中務卿を勤めていた。
天皇の死と同時に宮中は戒厳され、伊勢の鈴鹿、美濃の不破、越前の愛発の3関も
警固されたが、これはそうするのが恒例であった。

5月10日、在京していた出雲守大伴古慈斐と内竪として宮仕えを始めて間もない
淡海三船とが、朝廷を誹謗したという疑いで逮捕された。
しかし、三日後両人とも帰宅を許された。
淡海三舟葛野王の孫、初め御船王を名乗るが、臣籍降下し淡海真人姓となる。
【続紀】は後年この事件を振り返って、古慈斐に誹謗の事実はなく、藤原仲麻呂
古慈斐誹謗の罪に落としたのである、とはっきり書いている。
当時兵部少輔だった大伴家持は日録に「三船の讒言によって古慈斐宿禰
解任された」と書いている。

天平宝字元(757)年正月6日、前左大臣橘諸兄が失意のうちに74歳で死去した。

3月29日、皇太子道祖親王が喪中にもかかわらずある女孺と通じ、朝廷の機密を
洩らしたという事件が問題となり、皇太子を廃された。

4月4日、孝謙天皇は公卿会議に臨み、皇太子の後任を諮問した。
右大臣豊成・中務卿藤原永手らは、道祖王の兄塩焼王を推した。
摂津大夫文室智努(浄三)と左大弁大伴古麻呂らは、故舎人親王の子池田王を推した。
大納言仲麻呂は「・・・ただ陛下のえらびたもうかたを」と答えた。
孝謙天皇は「・・・船王も閨房がおさまらない。池田王は孝行に欠ける点がある。
塩焼王はかつて太上天皇に無礼を叱られたことがある。
ただ大炊王はまだ若いが、過失や欠点があるのを聞かない。
この王を立てたいと思うが、諸卿の考えは如何であろうか」と勅した。
右大臣以下は「勅命のままに」と答えた。
塩焼王   

道祖王に代わって皇太子となった大炊王は当時25歳だった。
王は仲麻呂の長男真従の未亡人粟田諸姉を妻に迎え、仲麻呂の邸に住んでいた。
粟田諸姉粟田真人の一族と思われるが、粟田真人の娘かも知れぬ。
大炊王の立太子が決定すると直ちに、内舎人として孝謙天皇に仕えていた仲麻呂の六男
刷雄が、勅命を受けて中衛という武装兵20人を率い、田村の邸に王を迎えに来た。

5月4日、平城宮を改修するというので、孝謙天皇はしばらく仲麻呂の田村邸に住まう
こととなった。田村邸は孝謙天皇が移ったために田村宮と呼ばれることになった。

5月20日、大納言従二位仲麻呂が紫微内相(太政官と同格)に任ぜられた。
同時に右大臣以下、塩焼王・池田王・船王・白壁王ら皇族を含めて、大幅な
位階昇進が発表された。

6月16日、大幅な人事異動があった。
兵部卿橘奈良麻呂は右大弁に移され、兵部卿には仲麻呂に近い石川年足が据えられた。
兵部少輔大伴家持は大輔へ昇進した。
左大弁大伴古麻呂は陸奥按察使兼鎮守将軍に兼任され、その下の鎮守副将軍には
陸奥守佐伯全成が任命された。
全成は5年前の大仏開眼供養で佐伯一族20人を指揮して久米舞を奉じている。
佐伯美濃麻呂、佐伯大成、佐伯古比奈らもこの20人の中に加わっていたと思われる。
同年5月に百済王敬福の後任として陸奥守に任ぜられ、久しく多賀城にあった。

今度の人事異動は右大弁巨勢堺麻呂の密奏が原因であった。
堺麻呂が薬の処方を聞きに答本忠節という(百済系)医者の家を訪ねた時、
忠節は次のような世間話をしたという。
大伴古麻呂公が小野東人大夫に言われたそうですが、『もしある人が大納言仲麻呂公を
殺そうとした場合に、君はどっちに味方する?』
東人大夫は『勿論ある人の方ですな』と答えたそうです。
私は東人大夫からその話を聞いたものですから、大納言の兄上右大臣豊成公に
話したのですが、公のお返事は『大納言はまだ青臭いのだ。わしから注意しておくから、
殺そうなんてやめてくれ』ということでしてな・・・」。

6月28日、但馬守山背王が田村宮にいる孝謙天皇と仲麻呂に「橘奈良麻呂は兵器を
準備して、田村宮を包囲しようと計画してます。大伴古麻呂も計画に加わっております]
と密告した。

7月2日、孝謙天皇の宣命が諸官人・貴族達に読み上げられた。
「近時、王たちや諸臣のなかに逆心を抱く者があり、・・・気違いじみた頑なな者どもが
改心するまで、温情をもって待とうと思う・・・おのが家、おのが一族の祖先の名を
汚さぬように、勤めるがいい」。
光明皇太后からも特に話したいことがあるといって、右大臣以下の上級官人は宮中に
呼ばれた。「お前たち藤原・橘の一族は私の甥である。・・・みな明い浄い心で天皇を
助け仕えまつらなくてはならない」。

しかし、その日の夜、亥の時、中衛府の舎人上道斐太都が内相仲麻呂に密告した。
「今日の未の時、この間の人事移動で備前守を解任されました小野東人が私を呼んで、
『諸王・諸臣の中に、皇太子と内相とを殺そうという計画が進んでいるが、
お前は参加しないか?』と申しました。

私は『諸王・諸臣とはどなたですか?]と質問しました。
東人は『黄文王安宿王橘奈良麻呂大伴古麻呂などという方々だが、他にも
大勢おられる』と答えました。

私はまた『皆様のご計画とおっしゃいますのは?』と質問しました。
東人は『二つあるんだ。まず精兵四百で田村宮を包囲する。
このためにはもう秦の一族が雇ってある。
次に陸奥鎮守将軍大伴古麻呂公が美濃の不破関まで行き、関を固めておいて
引き返す。もう帰京されているはずだ。太政官の許可は病気のため家族に
面会ということで取ってある』と申しました。
私はしばらく考えるふりをしてから『これはお断りできませんね』と答えました」。

仲麻呂は直ちに女帝に報告し、田村宮の諸門の警備を厳重にするとともに、
紫微中台の次官として当直していた中衛少将高麗福信に中衛の兵を動員させ、
前皇太子道祖王を右京の私宅に包囲し、小野東人答本忠節を逮捕して
左衛士府の獄に留置した。
尚、左衛士府の長官(左衛士督)は正四位上坂上犬養であった。

高麗福信は高句麗王族と伝承される背奈福徳の孫で、官位は従三位・弾正尹。
背奈福徳→福光→高麗福信→高倉石麻呂→・・・

翌日、孝謙天皇は右大臣藤原豊成・中納言藤原永手ら八人を左衛士府に派遣し、
東人らを取り調べさせた。
東人と忠節は「事実無根です」といい、豊成もその旨を復命した。

夕方、田村宮で孝謙天皇の傍らに仲麻呂が立ち、塩焼王安宿王黄文王
橘奈良麻呂大伴古麻呂の五人を前に
「塩焼王ら五人については謀反を企てているとの報告が入っている。
・・・きっと何かの間違いだと思う・・・今後は決してかような事のないように」
との皇太后の宣命が読み上げられた。

翌日、事態は急変した。
孝謙天皇と仲麻呂は右大臣豊成を取り調べ担当官から外し、中納言永手以下を
左衛士府に派遣し、東人らを拷問させた。
東人らはついに自白した。その内容は、

安宿王黄文王橘奈良麻呂大伴古麻呂大伴池主・大伴兄人・多治比犢養
多治比礼麻呂・多治比鷹主らが一味して、7月3日の夜明け前に兵を発して、
仲麻呂の邸を襲って殺して皇太子を退け、次に皇太后の宮を包囲して駅鈴と
天皇御璽を取り、右大臣豊成を奉じて天下に号令し、その後皇帝を廃し、
塩焼王道祖王安宿王黄文王の中から天皇を推戴するというものであった。

名の上がった人々は直ちに逮捕され、別々に厳しい訊問が始まった。
答えは人によってかなりの差があったが、大筋は同じであった。
特に佐伯古比奈という者の白状では、賀茂角足が一同決起の当夜、高麗福信
奈貴王坂上苅田麻呂巨勢苗麻呂牡鹿嶋足ら当時勇将の名の高い五人を、
平城京西郊の自宅に招待して酒宴を開き、鎮圧側に参加できないようにしたという。

奈貴王:系詳ならず、天智天皇または天武天皇の曾孫?
牡鹿嶋足:氏姓は丸子(無姓)→牡鹿連→牡鹿宿禰→道嶋宿禰。
               官位は正四位上・近衛中将。勲等は勲二等。
               陸奥国牡鹿郡の豪族の中で唯一中央官僚として立身した。

奈良麻呂永手らの訊問に対して「内相の政治ははなはだ無道である。
まず実力を行使して逮捕し、その上で陛下に実情を説明申し上げようとしただけだ・・・」
と答えた。

陸奥に派遣された勅使は、国守兼鎮守副将軍佐伯全成を訊問した。
全成は奈良麻呂から謀反をもちかけられた顛末を自白した上、訊問の終わった日に自経した。
「明い浄い心」を天皇に疑われたかれは、もはや生きていられなかったであろう。

訊問が終わって獄に戻った人々に対しては、永手百済王敬福船王らの監督下、
杖で全身を何度も打つ拷問が行われた。
黄文王道祖王大伴古麻呂小野東人多治比犢養賀茂角足らは過酷な拷問に
耐えかねて次々と絶命していった。
首謀者である奈良麻呂の名が【続紀】に残されていないが、同じく拷問死したと思われる。
後年、奈良麻呂の孫娘・可智子嵯峨天皇の皇后となって後、この忌まわしい記事の
中から祖父の名を削ったのであろう。
【続紀】には
「その与党の人ら、あるいは獄中に死し、自外は悉く法によって配流せらる」とある。
なお宝亀元(770)年太政官は、
この時の死刑・流刑の合計を奈良麻呂以下443人と算定している。

右大臣豊成も「密に賊に心を寄せ、叛乱の計画を知っているのに奏上せず、また
叛乱の訊問を命ぜられたのに究明しなかった」として太宰員外帥に左遷された。

塩焼王は謀議の席に連なっておらず、また挙兵の計画も全く知らされていかかった
として、不問に付されている。
後日、塩焼王は「氷上真人」の姓を賜って臣籍に降下することになる。

一方密告者は昇進した。
山背王:従四位上従三位;最終官位は参議礼部卿従三位

巨勢朝臣堺麻呂:従四位上従三位兼左大弁;最終官位は参議兵部卿従三位

上道臣斐太都:従八位上従四位下・中衛少将;最終官位は従四位下・備前国造
  更に斐太都には、これまでの「臣」に代わり「朝臣」のカバネが与えられた。

佐味朝臣宮守:従八位上従五位下:最終官位は従五位下・越後守。
  佐味氏は上毛野氏の一族で、東国六腹朝臣の一つ。



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愛犬・りく君

Author:愛犬・りく君
茨城県日立市十王町で
漢方整体院を経営してます。

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