藤原広嗣の乱

天平9(737)年、都では天然痘が大流行し、藤原四兄弟が相次いで病死した。
4月17日、参議民部卿藤原房前が死去、享年57歳。
7月12日、参議兵部卿藤原麻呂が死去、享年43歳。
7月14日、右大臣藤原武智麻呂が死去、享年58歳。
8月05日、参議式部卿兼太宰師藤原宇合が死去、享年44歳。
世は、長屋王の怨霊の所業と相伝える。

9月28日、公卿の中で僅かに生き残った鈴鹿王が知太政管事、橘諸兄が大納言となり、
新任参議の多治比広成が中納言となり、政権の再建が始まった。
藤原式家の嫡男・広嗣は従兄の乙麻呂永手と一緒に従五位下を授けられた。
12月12日、藤原武智麻呂の長男兵部卿・豊成が参議に加えられた。

天平10(738)年1月13日、橘諸兄が正三位右大臣となり、鈴鹿王も正三位に昇進した。
4月22日、式部少輔・広嗣は公卿への登竜門・大養徳守に任ぜられた。
12月4日、広嗣は親族への誹謗を理由に突如として大宰府少弐に左遷された。
広嗣は容姿端麗にして文武の才に富んだが、どうやら傲慢で協調性のない
人柄であったらしい。
一体誰のせいでこんな事になったのかと考えた時、広嗣の頭に浮かんだのは
天皇側近の玄昉下道真備とであった。
広嗣から見れば、この二人は「利口で国を覆す」連中である。

玄昉阿刀氏という豪族の出て、養老元(717)年に出発した遣唐使多治比県守
一行に学問僧として加わった。
玄昉は智周大師について法相の教学を学び、在唐18年、時の玄宗皇帝から位は
三品に準じて紫の袈裟を賜わるほど、その俊才を認められ、天平6(734)年末、
次回の遣唐使多治比広成の一行とともに大宰府に着き、翌春入京した。
玄昉の在唐中の名声はそのまま日本での名声となり、聖武天皇も紫の袈裟を下賜した。
天平9年の疫病流行に際しては、宮中の仏殿である内道場に招かれ、僧正に任ぜられた。
真備の斡旋で、長らく憂愁にとらわれていた宮子皇太夫人の病気を祈祷により回復させ、
聖武天皇と光明皇后の絶対的な信任を得た。

下道真備吉備の豪族で、25歳で学生として玄昉らとともに入唐し、42歳でやはり
玄昉らとともに帰国した。
「唐礼」・「太衍暦経」など多くの書籍や文物・器材などを献上し、博学多才を示した。
帰国当時の従八位下から直ちに正六位下大学助に叙せられ、その後三年間に
従五位上右衛士督にまでのぼり、中宮亮を兼ねて天皇・皇后の側近となった。

かつて藤原兄弟が占めていた席に、新帰朝の玄昉真備が座ったのである。
広嗣には時勢が全然面白くなかった。

天平11(739)年4月、中納言多治比広成の死後、大野東人巨勢奈弖麻呂大伴牛養
県犬養石次らが参議に任ぜられ、公卿は橘諸兄を首席に合計7人となった。

大宰府は「大君の遠の御門」と呼ばれるように、平城宮や平城京を、面積にして
約1/4に縮小した規模と条坊制とをもち、いわゆる都府楼は大極殿や朝堂院の
諸堂に模して建てられていた。
まだその長官太宰帥は大臣・大納言に次ぐ位階の高官とされ、次官の大弐・少弐とて
大国の長官と等しく五位相当の官であり、以下の職員も、神祇官に相当する
主神はいるし、兵部省に当たるのは防人司というふうに、中央の二官八省
小型にしたような構成であった。
西海道を除く全国の国々が、中央の直轄とされているのに対して、西海道の
九国三島のみは大宰府によって統轄されていた。

二年近く大宰府にいるうちに、広嗣の心には、絶望感と功名感とが交錯してきた。
現在の公卿たちでは、帰京できる見込みが当分ない。
この時太宰帥は広嗣の父・宇合の死後欠員となっていたし、一緒に発令された
太宰大弐高橋安麻呂は右大弁兼任だったから赴任せず、事実的に広嗣
大宰府で最高の地位にあった。
大宰府の都からの遠さと、その長官に与えられている権限とは、まだ20歳台で
長官代理となった広嗣の気を大きくさせていた。

天平12(740)年8月29日、広嗣の上表文が朝廷に届いた。それは時の政治を批判し、
天地の災異のよってきたるゆえんは政治が誤っているためであると述べ、
玄昉下道吉備の処分を要請していた。

9月3日、広嗣が大宰府管下の兵を動員したという飛駅が朝廷に入った。
よほどせっかちだったのか、広嗣は上表文の返事を待たずに挙兵したのだ。
聖武天皇は直ちに参議従四位上大野東人を大将軍、従五位上紀飯麻呂を副将軍、
軍監・軍曹各4人を任し、東海・東山・山陰・山陽・南海の兵1万5千に動員令を下した。

翌4日、朝廷に交代で参勤していた隼人の中から24人に従軍を命じた。

翌5日、従五位上佐伯常人・従五位下阿倍虫麻呂の両人を勅使として軍に加えた。

11日、治部卿三原王の伊勢派遣を決定した。大神宮に幣帛を奉納させるためである。

15日、畿内七道諸国に敕し、国別に像高七尺の観世音菩薩像一体を造り、
観世音経10卷を写すようにと命じた。戦勝祈願のためである。

21日、すでに関門海峡に臨んで、次々と到着する諸道の兵を編成していた
大将軍大野東人は、長門国豊浦郡の郡司に精兵40人を授けて海峡を渡らせ、
上陸地点を確保させた。

翌22日、東人は勅使佐伯常人阿倍虫麻呂を隼人24人、兵4千人の将として渡海させ、
豊前国企救郡の板櫃の鎮(軍団の兵営)を襲わせた。
板櫃は今の北九州市小倉北区に当たり、当時は関門海峡を守る要衝であった。
板櫃鎮の大長は逃亡したが、小長と京都郡の鎮長とは、遺棄死体の中に発見された。
尚その際、登美・板櫃・京都三鎮の兵1767人と兵器多数とを捕獲した。

24日、東人のもとに帰還した間諜の報告では、広嗣は企救郡の西隣、筑前国遠賀郡
到着していて、その郡衙を本営とし、烽火をあげて国内の兵を徴集しているという。

翌25日、豊前国の諸郡の郡司が、70人、80人の兵を率いて官軍に帰順して来た。

29日、次のような勅が、九州諸国の官人、百姓にあてて発せられた。
「逆賊広嗣は若年のところから凶悪であり、・・・一度叛乱軍に加わった者でも、
改心して広嗣を斬殺すれば、無位無官の者でも五位上を授けよう・・・」。

10月9日、広嗣の軍一万余騎は、東進して板櫃河に至り、笩を組んで渡河し始めた。
佐伯・阿倍両部隊は弩を発射してこれを防ぎ、広嗣軍1万と常人ら両部隊6千とは、
板櫃河を挟んで対峙した。
官軍の隼人は広嗣軍の隼人に対して帰順を呼びかけた。
常人らは常人らで「広嗣出てこい」と十度叫んだ。

広嗣
はしばらく姿を見せなかったが、やがて馬に乗ったまま、悠然と出て来て
「勅使到来と承る。勅使とは誰か」と言った。常人らは「勅使はわれわれだ。
衛門督佐伯大夫と式部少輔阿倍大夫だ。わかったか」と答えた。

広嗣
は「わかった」と言って馬から降り、二度、丁寧に頭を下げた。
「私は決して朝命に反抗しているのではない。ただ、朝廷を乱する者二人を引き渡して
ほしい、と申し上げているだけだ。この広嗣がもし朝廷に反抗しているのであれば、
なにも官軍の世話にならなくても、天つ神・国つ神が罰してくれる」と言った。
常人らは「朝命で大宰府の主典以上を召喚しているのに、どうして軍兵など引き連れて
押し寄せて来たのか」と怒鳴った。

広嗣
は沈黙し、馬に乗って引っ込んだ。
問答を見物していた広嗣軍の隼人3人が河に飛び込んで官軍側へ泳いて来た。
官軍側の隼人がすぐ助けてやったので、無事に岸に上がることが出来た。
これを見ていた隼人20人、広嗣の部下10余人も帰順した。

隼人の一人は、広嗣が全九州から動員した兵を三軍に分け、自分は鞍手方面、
弟の綱手は豊後方面、多胡古麻呂(系詳ならず)は田河方面から、官軍を囲む
計画をたてており、豊後・田河両方面軍はここにはまだ到着していないことを
官軍に告げた。
広嗣の乱 

その後、広嗣は板櫃河の会戦に敗れ、弟や直属の部下を連れて逃亡した。
広嗣らは船に乗って肥前国松浦郡値嘉嶋(五島列島)に渡り、そこから東風に送られ航走し
新羅へ逃れようとした。
ところが耽羅嶋(済州島)の近くまで来て船が進まなくなり、一日一夜漂い、それから風が西に
変わって、船を吹き戻し始めた。

広嗣
は船上に立ち上がり、駅鈴を捧げて「私は大忠臣だ。神霊がどうして私を棄てるはずが
あろうか。神よ。ねがわくはしばし風波を鎮めたまえ」と祈り、祈り終わると駅鈴を海に投じた。
しかし風波はますます激しくなり、とうとう値嘉嶋にまた戻ってしまった。
駅鈴は駅使を派遣する時に持たせる鈴で、全国の通信連絡や軍の動員に欠くことの
できないものである。

10月23日、広嗣は値嘉嶋長野村(宇久島内)で、阿倍黒麻呂に捕らえられた。
黒麻呂(のち日向守)の出自は不明だが、阿倍虫麻呂の同族と思われる。

大野東人が広嗣の逮捕を知らされたのは、6日後の29日であった。

それより3日前の26日、聖武天皇は突如「・・・今月末、しばらく関東に行く・・・」と勅した。

11月1日、大野東人は現地・松浦郡で広嗣・綱手の兄弟を斬った。

乱の鎮圧の報告書が伊勢国壱志郡の河口村にいた天皇に届いたのは11月3日であった。

聖武天皇が元正前女帝・光明皇后及び右大臣橘諸兄ら重臣とともに、藤原仲麻呂
紀麻呂との率いる騎兵400に前後を警衛させながら平城宮を出発したのは
天平12(740)年10月29日であった。

伊賀・伊勢・美濃・近江と行宮や郡衙に泊り、時には狩りを楽しんだりして、12月15日に
山城国相楽郡の甕原宮に入り、ここを新しく都にする旨を告げ造営にかかった。
諸兄が広嗣の乱を機会とし、自分と縁の深いこの地に都することを勧めたという。

甕原宮は岡田離宮ともいって、木津川に臨み、すでに元明・元正両女帝がしばしば遊びに
来ていたところである。聖武天皇も、昨春、元正前女帝とこの離宮へ3日ずつ二度滞在した。

また、木津川下流右岸の玉井には、橘右大臣家の別荘があり、天皇がこの夏に招かれて、
宴たけなわになった時、諸兄の長男で20歳になる奈良麻呂に、みずから従五位下を
授けたことがあった。

天皇は天平13(741)年正月を甕原宮で迎えた。

正月11日、伊勢神宮をはじめ、全国の諸社に、遷都を報告する使いが派遣された。

正月23日、広嗣の叛乱に参加した者に対する処分が決定した。
死罪26人、没官5人、流罪47人、徒罪32人、杖罪177人であった。
縁坐として広嗣の弟・良継は伊豆国へ、田麻呂は隠岐国へ流罪となった。

閏三月になると、既に凱旋して平城の留守を預かっていた参議大野東人らに、
兵庫の武器を甕原宮に運ばせるとともに、まだ京に居残ってぐずぐずしていた
五位以上の官人に対しては、即日この都へ引っ越せと厳命した。

11月11日、造営中の新しい宮の「大養徳恭仁大宮」という正式名称が決定された。

平城宮の大極殿やその回廊は、解体されて運ばれ、恭仁宮に移建中であったが、
遷都以来二度目の元旦を迎えた天平14(742)年にも完成しなかった。
その上、秋8月には甲賀郡の紫香楽村に離宮を造営せよという命令が出て、
その月末、聖武天皇は紫香楽宮に行った。
紫香楽宮への行幸は、翌年冬まで前後4回に及んだ。
4回目は天平15(743)年7月~11月まで4ヶ月にわたる長期滞在で、その5月に
左大臣にのぼっていた橘諸兄は、4ヶ月間恭仁宮の留守を命ぜられていた。
大仏建立の詔が出たのも、紫香楽宮滞在中であった。

古代畿内要図     

天平16(744)年正月、聖武天皇は難波宮へ行くと言い出した。
閏正月11日、民部卿従四位上藤原仲麻呂を留守官に任じて、難波へ出発した。
安積親王は父天皇に随行して難波へ行く途中、河内の桜井行宮で「脚の病」を起して
自邸へ引き返したが、3日後に死んだ。17歳だった。
恭仁京の留守を預かっていた仲麻呂が毒殺したともいう。

2月になると、駅鈴や天皇印・太政官印などを皆難波へ取り寄せた。
2月26日、「難波宮を皇都とする、云々」の勅が出され、難波宮に遷都した。

更に天平17(745)年正月、紫香楽宮に遷都が決まった。
更に同年5月11日、紫香楽宮から平城宮に帰還した。
広嗣の乱の最中に出発してから満4年半あまり経っていた。

遷都の経費について【続紀】には「用度の費やすところ、あげて計うべからず」とある。



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愛犬・りく君

Author:愛犬・りく君
茨城県日立市十王町で
漢方整体院を経営してます。

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