蝦夷地の経営

大化改新を契機として中央権力の強化を目指し、蝦夷対策が積極的に進められる。

大化3(647)年に渟足柵、翌年には磐舟柵をつくり、信濃の民を移して柵戸とした。
この時期の蝦夷対策は日本海側を主としていた。

陸羽開拓図-2  

斉明4(658)年4月、越の国守・阿倍比羅夫が船180艘を率いて遠征し、降伏した蝦夷の首領に
位を授け、渟代・津軽二郡の郡領に任命した。
この頃の越の国は、まだ越前・越中・越後に分かれていなかった。
ついで渡島の蝦夷を有間浜に召し聚めて宴会を催し、更に肉入籠に至り、後方羊蹄にも
郡領を置いて帰還した。
「渡島」は津軽半島、「有間浜」は齶田(秋田)の浦から遠くない海浜とする説がある。
「肉入籠」・「後方羊蹄」は不明。

斉明6(660)年3月阿倍比羅夫が船200艘を率いて、第二回目の遠征を行った。
粛慎と戦って帰り、49人の粛慎人、生きた熊二頭とを朝廷に献じる。

和銅元(708)年9月、越後国司・阿倍真君系図不明)の奏請により、出羽郡を新設した。
越後国と同じような統治をしようとしたため、今まで住んでいた蝦夷が反乱を起した。


和銅2(709)年3月
、左大弁巨勢朝臣麻呂を陸奥鎮東将軍、民部大輔佐伯宿禰石湯
征越後蝦夷将軍、内蔵頭紀朝臣諸人を副将軍に任命し、東海・東山・北陸諸国の兵士を
集めて、蝦夷征討に向かわせた。秋には征伐が終了し、将軍達は凱旋した。

和銅5(712)年、出羽郡に陸奥国の最上・置賜両郡(現在の山形県の大半)を加えて、
出羽国を新設した。

養老4(720)年9月、陸奥国の蝦夷が反乱し、按察使上毛野広人系図不明)を殺した。
持節征夷将軍・多治比県守の率いる大軍は太平洋岸にそって、
持節鎮狄将軍・阿倍朝臣駿河の率いる大軍は日本海側から、蝦夷地へ進撃した。
翌年4月、討伐が終了し、将軍達は帰還した。

神亀元(724)年3月、海道の蝦夷が反乱して、陸奥大掾佐伯児屋麻呂を殺害した。
4月、式部卿藤原朝臣宇合を持節大将軍、宮内大輔高橋朝臣安麻呂国益)を
副将軍に任命し、海道の蝦夷征討に向かわせた。
5月、小野朝臣牛養を鎮狄将軍に任命し、出羽国の蝦夷征討に向かわせた。
11月末、宇合と牛養は平城京に帰還している。
大野東人は副将軍格で従軍したらしく、翌年従四位下勲四等に叙せられた。
以来,しばらく蝦夷勢力の制圧に活躍し、天平元(729)年は陸奥鎮守将軍に任じられた。

もともと陸奥出羽とは、別々に開発が進められていた。
陸奥へは白河関を越える山道か、勿来関を通る海道で軍を送り込むが、神亀元(724)年
大野東人が今の仙台付近に多賀柵を築いて本拠とし、その北方に宮城平野を横断して
東からの順に牡鹿新田色麻、或は玉造などの柵を建てて前進基地としていた。

出羽へは越後から海路をとって入るが、天平5(733)年、最上川河口付近にあった出羽柵を、
一挙に雄物川河口付近にまで進め、更に雄物川を遡り、横手盆地南部の雄勝付近に住む
蝦夷も帰順させていた。
しかし多賀柵と出羽柵との連絡は、雄勝から南東、奥羽山脈にかけての蝦夷地を通過しない
かぎり、極めて不便だった。

天平9(737)年正月、当時陸奥按察使兼鎮守将軍の任にあった東人は、陸奥と出羽の
連絡路を開くために、その経路にある雄勝村の蝦夷征討を建言した。
これに応じて参議兵部卿・藤原麻呂が持節大使に任じられ、関東6カ国の騎兵1000騎を
率いて、2月19日に多賀柵へ入城した。

引き連れて来た騎兵のうち、345騎は麻呂が掌握して多賀柵を固め、459騎は牡鹿柵
ほかの前進基地に分配した。

東人は精鋭の騎兵196騎、多賀の鎮守府の兵499人、陸奥国内の兵5000人、帰順した
蝦夷249人を加えた大部隊を率いて、2月25日に多賀柵を発して西北の賀美郡に至り、3
月1日に同郡色麻柵から奥羽山脈を横断し、即日、出羽国大室駅に達した。
「色麻」は今日の色麻村、「大室」は尾花沢町の一部という。

大室駅には出羽国守田辺難波が兵500人、帰順した蝦夷140人を従えて待っていた。
東人と難波は三日後、雄勝へ向かって北進を開始したが、この冬の大雪がまだ
残っていて秣が得がたく、進軍が遅れ、4月4日にようやく比羅保許山に到達した。

ここに、雄勝村の酋長が三人、出羽守田辺難波のところへ参り、帰順を申し入れたので、
難波が宣撫工作を引き受けることにし、東人は比羅保許山で軍を返し、
4月11日に多賀柵に帰って来た。
比羅保許山から更に北進して雄勝を通過、出羽柵を連絡することは中止となった。
まだ、大雪で進軍が遅れ、耕作に間に合わなかったため、柵城を築くこともしなかった。

大使藤原麻呂は以上のような経過を報告書に記し、4月14日付で都へ発送した。
報告書が都へ届くと、聖武天皇は大使の処置を是としてその召還を決定した。

天平宝字元(757)年藤原朝狩が陸奥守となり、759年には陸奥鎮守将軍兼ね、
東北地方の全権を任された。
天平宝字2(758)年には、陸奥国に桃生城、出羽国に雄勝城をつくり、
出羽柵秋田城と改称された。

神護景雲元(767)年、陸奥少掾道嶋三山が中心となって伊治城を造営した。
海道に置かれた桃生城に対して,陸奥国の山道を治めるために築造された。
道嶋三山はのちに陸奥国造・鎮守軍監・陸奥員外介などを歴任した。

道嶋氏は、元々古代有力氏族「和邇氏」の部民と考えられるという。
  ──道嶋三山──大楯──
  ──道嶋嶋足──御盾──

これにより、秋田城・雄勝城、伊治城・桃生城の線が北方の最前線となり、じりじりと
蝦夷を圧していた。

宝亀元(770)年8月10日、前に帰順していた蝦夷の首長宇漢迷公宇屈波宇(うかめのきみ
うくはう)らは、出先の軍との関係を断ってその本拠地に引き上げた。
使者を遣わして呼び戻そうとしたが、宇屈波宇は「率一二同族、必侵城柵」と反攻の姿勢を
露骨に示して戻らなかった。
朝廷は近衛中将兼相模守の道嶋嶋足らを派遣して調査させたが、この事件のその後に
ついては史料が無くよくてわからない。
強硬な対蝦夷政策は、蝦夷に懸念の意を生じさせており、宇屈波宇の行動は
蝦夷の諸集団の支持を得たらしい。

宝亀5(774)年7月23日、光仁天皇は河内守紀広純に鎮守副将軍を兼任させ、陸奥国按察使
兼陸奥守兼鎮守将軍大伴駿河麻呂に、「蠢彼蝦狄、屡侵辺境・・・宜早発軍応時討滅」と勅した。

7月25日、陸奥の蝦夷が蜂起し、桃生城に侵入して気勢を揚げた。
これに対して出羽の諸集団も呼応し、広がる動乱は険悪の様相を呈して来た。
世に言う「三十八年戦争」の始まりである。鎮守将軍大伴駿河麻呂は、現地の兵力を率いて
桃生城の北方の遠山村まで進攻して大きな戦果を挙げた。

宝亀6(775)年9月13日、鎮守副将軍紀広純は河内守から陸奥介となり、
9月27日、大伴駿河麻呂は参議に任じられた。

宝亀7(776)年7月7日、参議正四位上陸奥按察使兼鎮守将軍・大伴駿河麻呂が死去した。
駿河麻呂はこの年の2月に、陸奥2万・出羽4千の大軍を動員して、更に蝦夷の攻伐を
断行しようとしたが、病いに倒れ計画は中止となった。

11月26日、鎮守府は陸奥の兵3000人をもって、蝦夷の最大拠点胆沢の地(岩手県奥州市)に
攻撃を加えた。

宝亀8(777)年5月27日、陸奥守兼鎮守副将軍・紀広純が陸奥按察使を兼任。
広純は幾度か出撃を試したものの、勝利からはほど遠く、蝦夷集団の根強い抵抗のために
戦線は膠着状態に陥った。

宝亀9(778)年6月25日、前線将士の士気を鼓舞するため、論功行賞が行なわれた。
紀広純・佐伯久良麻呂(陸奥鎮守権副将軍)・伊治公呰麻呂・百済王俊哲以下2267人に
位を賜った。伊治郡の大領・伊治公呰麻呂は外従五位下に叙せられた。

宝亀11(780)年2月1日、紀広純石上宅嗣(右大弁)・大伴家持(伊勢守)らとともに
参議に任ぜられた。
その翌月紀広純は、既に朝廷に建議して諒承を得た軍略に従って、みずから兵3千人を
率いて伊治城の北方に覚鱉柵を築きつつあった。伊治公呰麻呂もこの作戦に加わった。

この覚鱉柵の造営は、胆沢への大進撃の足掛かりである。
呰麻呂のもとには、胆沢とそれを中軸とした広大な地域からの情報がぞくぞくと入って来た。
蝦夷の全集団はこれまで以上に動揺し、激昂を募らせていた。
呰麻呂は、次第にその動きに引き込まれようとしていた。
彼は広純の高圧的な態度を憎んでいたばかりではなく、同僚の牡鹿郡大領道嶋大楯から
いつも夷俘として辱められていた。

3月22日、呰麻呂はその配下の俘軍に呼び掛けて決起させ、まず大楯を屠り、
広純の陣営を包囲して殺害した。
そこで彼は、広純に従っていた陸奥介大伴真綱系詳ならず)を害することなく、
伴なって多賀城に赴いた。

この陸羽最大の軍事的拠点には、おびただしい量の武器兵糧が貯えられていたし、
城下の豪族・農民はここに立て籠もり、呰麻呂の指揮する俘軍と一戦を交えようと
いきり立っていた。

しかし、真綱ら官人は既に戦意を喪失し、同胞を見殺しにして北面の城門から脱出し、
そのために城下の民も離散を余儀なくされた。

それから数日後、呰麻呂は守備する者のいない多賀城を襲い、鎮守府庫のものを
略奪し尽くし、城郭に火を放って遠く北方の夷地に引き上げた。

呰麻呂が反旗を翻したことで奥羽の軍状はまったく逆転し、双方の側において一大決戦が
避けられない形勢になった。
呰麻呂の決起に奮い立った胆沢を本拠とする蝦夷の最強の諸集団だけではなく、
出羽の雄勝城周辺の集団も反攻に移った模様で、雄勝郡一帯の土豪・農民は
兵乱を恐れて離反してしまった。

3月28日、朝廷はこの奥羽をおおう反乱を鎮圧するために、中納言藤原継縄(南家)を
征東大使に、大伴益立紀古佐美を征東副使に任じた。
翌29日、大伴真綱を陸奥鎮守副将軍に、安倍家麻呂を出羽鎮狄将軍に任じ、
大伴益立に陸奥守を兼任させた。

討伐軍は現地に着くと、蝦夷征伐よりもさきに、まず多賀城を復旧し、武器・兵糧を
予備しなくてはならなかった。
土豪・農民は蝦夷の脅威の前に怯え、軍卒の士気はあがらなかった。
朝廷が如何に息巻いても、敵地への進撃は当分あきらめるほかはなかった。

6月8日、百済王俊哲を陸奥鎮守副将軍に、多治比宇佐美を陸奥介に任じた。

7月22日、朝廷は難局を打開するために、坂東諸国の土豪・農民に対して、
9月5日までに多賀城に集結することを命ずるとともに、
東海・東山の諸国に武器・兵糧そのほかの軍需品の陸奥運送を促した。

9月23日、藤原継縄を解任し、藤原小黒麻呂(北家)を持節征東将軍に起用した。
小黒麻呂麾下の征討軍は「歩騎数万」と言われていた。
朝廷は強く出撃を要望したが、小黒麻呂らは大規模な作戦を展開しなかった。
出羽のある地域において多少の戦果をあげてはいるが、鎮守副将軍百済王俊哲らは
優勢な敵軍に包囲され、辛くも危地を脱するという敗北を免れ得なかった。

天応1(781)年4月3日、光仁天皇が退位し、桓武天皇が即位した。

6月1日、桓武天皇は小黒麻呂が戦闘に見切りをつけて現地で征討軍を解体したという
報に接して、「賊衆四千余人、其所斬首級僅七十余人、則遺衆猶多。何須先献凱旋、
早請向京」と凱旋を拒否した。
だが、小黒麻呂は8月25日に平城京に引き上げた。
【続紀】には「陸奥按察使正四位下藤原朝臣小黒麻呂、征伐事畢入朝、特授正三位」とある。

延暦元(782)年6月17日、中納言兼春宮大夫大伴家持に陸奥按察使鎮守将軍を兼任させ、
坂東出身で征戦の経験に富む入間広成安倍猿島墨縄(系詳ならず)を権副将軍に任じた。
「入間」は武蔵国入間郡、「猿島」は下総国猿島郡を表わしており、彼らは土着した
中央貴族の後裔と思われる。

延暦3(784)年6月10日、藤原種継・佐伯今毛人・紀船守らが造長岡宮使に任命された。

延暦7(788)年2月28日、陸奥按察使兼陸奥守多治比宇美に鎮守将軍を兼任させ、
安倍猿島墨縄(系詳ならず)を鎮守副将軍に任じた。

3月2日、陸奥国に軍粮3万5千余斛を多賀城に運収することを命ずるとともに、
東海・東山・北陸諸道の諸国には軍粮(糒)2万3千余斛と塩を7月を期限として、
陸奥国へ転運するよう命じた。

3月3日、東海・東山・坂東諸国に、歩騎兵5万2800余人を調発して、来年3月までに
多賀城に集結することを命じた。

3月21日、多治比浜成紀真人佐伯葛城入間広成らを征東副使任じた。

7月6日、参議左大弁兼春宮大夫中衛中将紀古佐美を征東大使に任じた。

12月7日、征東大使紀古佐美は天皇から節刀をうけて、「坂東安危在此一挙、
将軍宜勉之」と激励され、東北に向かった。

延暦8(789)年3月9日、多賀城に集結を終わった大軍は、征東大使の総指揮のもとに
胆沢を目指して北進を開始した。
3月28日にやっと衣川の北上川の西に達し、そこで1ヶ月以上も滞留した。
敵影が北上川の東岸一帯の山野に出没して、その背後にかなりの兵力が待機して
いるのを察知したからである。

紀古佐美の軍からいえば、脇腹に匕首を突き付けられた格好である。
ここで敵とじかに相対することになっても、征東大使の幕僚は胆沢を本拠とした敵の内情、
その出方については全くわかっていない。
呰麻呂の反乱後、こちらのスパイ網がほとんど完全に壊されてしまったからである。
言って見れば、この大軍は初めから暗闇の賊地への行進であった。

長岡の朝廷からは、「夫兵貴拙速、未聞巧遅、又六七月者計応極熱。如今不入、恐失其時。
已失其時、悔何所及」と、迅速かつ強烈な攻撃を求めて来た。

そこで古佐美らは、やむなく、前軍・中軍・後軍に分けた精鋭6000を一度に、北上川を東へ
渡河させ、一挙に敵を急襲することにした。

敵のため前軍は阻止されてしまったが、中軍と後軍は抵抗なく対岸に渡った。
中軍と後軍は勢いに乗じて、賊地の「十四村、宅八百許煙」を焼き払いつつ後方に
退く敵を追撃した。
その時、側面から突如として「東山」に隠れていた敵の大集団が姿を現して反撃に移り、
わが進撃部隊を川岸に押し返した。
中軍と後軍の兵士は慌てふためいて混乱に陥り、我勝ちに活路を川流に求めた。

官軍の戦死者25人、敵の矢に当たった者245人、河に飛び込んで溺死した者1036人、
武器・戎衣をかなぐり棄てて裸身で泳ぎ帰った者1257人であった。

この最前線に陣をはり、征東大使麾下の進撃軍を出鼻をしたたかに叩いて勇名を
とどろかせたのが、大墓公阿弖流為であった。

征東大使紀古佐美とその幕僚らは、この惨憺たる敗北にまったく戦意を失い、
朝廷の意向に反して東海・東山両道から徴発した数万の兵に対して帰郷を命じた。

9月8日、持節征東大使紀古佐美は長岡京に帰り、天皇に節刀を返した。

9月19日、紀古佐美らは太政官曹司において、勅使として遣わされた
大納言藤原継縄(南家)・中納言藤原小黒麻呂(北家)・同紀船守らによって、
さきの衣川での逗留と敗軍状況について厳しく追及された。

このようにして、桓武天皇の第一次蝦夷征討は失敗に終わった。

胆沢付近胆沢の地は北上川の中流域を
占めるかなり広い盆地で、豊かな
流水と土質に恵まれていた。

「賊奴の奥区」と憎々しげに言われた
胆沢は、蝦夷人にとっては何よりも
自由の別天地であった。

この地域の山また森、或は河川は、
彼らに漁労・狩猟の対象を無尽蔵
と言ってもよいほど豊饒に提供し、
広い原野では馬が沢山飼育されていた。

胆沢の土地と人間を征服できれば
蝦夷征伐は大半の成果を収めた
ことになろう、というのが桓武天皇の
多年の思惑であり、執念でさえあった。

延暦9(790)年3月10日、多治比浜成
陸奥按察使兼陸奥守に任ぜられた。
彼は前年の敗北で責任を問われなかった
唯一人の副将軍であった。

朝廷は何ら躊躇うところなく、次の大決戦
への準備に取り掛かった。
胆沢への再度の進撃を4年後と定め、
兵の動員は前回の2倍の10万と定めた。

延暦10(791)年1月18日、朝廷は軍士を
簡閲するとともに戎具を検査するために、
百済王俊哲坂上田村麻呂を東海道に、
藤原真鷲を東山道に派遣した。

7月13日、大伴弟麻呂を征東大使に、百済王俊哲多治比浜成坂上田村麻呂巨勢野足
を征夷副使に任じた。

延暦13(794)年1月1日、征夷大将軍大伴弟麻呂は天皇から節刀を受けて東北に向かった。

6月13日、副将軍田村麻呂らの指揮のもとに第二次蝦夷征討の大攻撃が開始された。

【日本後紀】のこの年の部分が散逸してしまったので、第二次攻伐の経過はこれ以外に
何もわからないが、大伴弟麻呂が10月28日に天皇に報告したところによれば、
「斬首457人、捕虜150人、馬の捕獲85疋、蝦夷の村を焼くこと75ヶ所」であった。
征軍10万の兵力を念頭におくと、この戦果はずいぶん貧弱なものであり、
ついに胆沢を攻略することが出来なかった。

10月22日、桓武天皇は葛野郡の新京・平安京に遷った。

延暦14(795)年1月1日、征夷大将軍大伴弟麻呂朝見、進節刀。

8月7日、陸奥鎮守将軍百済王俊哲卒。享年55歳。

延暦15(796)年1月25日、坂上田村麻呂が陸奥出羽按察使兼陸奥守に任ぜられた。

10月27日、陸奥出羽按察使兼陸奥守坂上田村麻呂に鎮守将軍を兼任させた。
ここにおいて、田村麻呂は平時のおける東北の行政・軍事上の全権力を掌握する
ことになった。時に田村麻呂39歳。

11月2日、伊治城と玉造塞との中間に新しく駅を開設し、危急の事態に備えた。

11月21日、相模武蔵上総常陸上野下野出羽越後などの農民9000人を
伊治城の周辺に移した。

延暦16(797)年11月5日、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じた。
田村麻呂らは伊治城を拠点にして、周辺地域の夷俘の間に懐柔工作を続けた。
そのために城塞に来降する蝦夷が跡を絶たなかった。

延暦19(800)年10月28日、任征夷副将軍。
記録が欠失しているため、どういう人々が副将軍に任命れたかは不明。

延暦20(801)年2月14日、田村麻呂は天皇から節刀を授けられた。

【日本後紀】の欠失のために、第三次攻伐の経過はほとんどわからないが、
【日本紀略】9月27日に「征夷大将軍坂上田村麻呂等言、臣聞、云々、討伏夷賊」とあり、
田村麻呂の率いた大軍によって、ようやく胆沢の地を攻略したようである。

また、【日本後紀】弘仁2(811)年12月13日の条には「・・・遠ク閉伊村ヲ極メテ・・・」とあり、
征伐軍が胆沢を越えて、遠く奥地の閉伊村まで進撃したと記している。

10月28日、征夷大將軍坂上田村麻呂召進節刀。
伊治公呰麻呂の反乱以来、実に22年の歳月が、東北の戦争とその準備に費やされた。

延暦21(802)年1月9日、遣従三位坂上大宿禰田村麻呂、造陸奥国胆沢城。

胆沢城は胆沢川が北上川の中流に合流する地点のやや南の方八町の広大な敷地に
造営されることになり、まもなくここが、多賀城に代わって陸奥の最大の軍事拠点になる。

胆沢失陥後のこういう形勢を前にして、これまで長く頑強に抵抗を続けていた首長大墓
公阿弖利為
盤具公母礼等は、配下の五百余人を率い、田村麻呂に降伏を申し出た。

7月10日、田村麻呂は阿弖利為と母礼を引き連れて平安京に帰り、天皇に報告した。

8月13日、斬夷大墓公阿弖利為・盤具公母礼等。
田村麻呂が頻りに彼らのために助命を乞うたにもかかわらず、公卿たちは強硬に
それを退け、ついに河内国杜山で二人の首長を斬刑に処した。

延暦22(803)年3月8日、造志波城使従三位行近衛中将坂上田村麻呂辞見。

延暦24年(805)12月7日、有勅、令参議右衛士督從四位下藤原朝臣緒嗣式家)與
参議左大弁正四位下菅野朝臣真道相論天下徳政。

于時緒嗣議云:「方今天下所苦、軍事與造作也。停此両事、百姓安之」。
真道確執異議、不肯聴焉。帝善緒嗣議、即從停廃。

延暦25(806)年3月17日、桓武天皇が内裏正殿で崩御した。享年70歳。

弘仁元(810)年9月16日、参議正四位上文室朝臣綿麻呂為大藏卿兼陸奧出羽按察使。

弘仁2(811)年1月11日、陸奥国に和我・稗縫・斯波の3郡を置いた。

3月20日、嵯峨天皇は陸奧出羽按察使文室綿麻呂・陸奧守佐伯清岑・介坂上鷹養
鎭守将軍佐伯耳麻呂・副将軍物部匝瑳連足継らに敕して、蝦夷征伐を許可した。

佐伯耳麻呂:系詳ならず、佐伯清岑の同族と思われる。
物部匝瑳連足継:本貫は下総国匝瑳郡で、物部小事の子孫と称する。
  物部小事→・・・物部匝瑳連大嶋→・・・足継→熊猪→

4月17日、文室綿麻呂を征夷将軍に、大伴今人・佐伯耳麻呂・坂上鷹養を征夷副将軍に
任じた。

5月23日、大納言正三位兼右近衛大将兵部卿の坂上田村麻呂が死去。享年54歳

12月13日の詔には
「陸奥国ノ蝦夷等、代ヲ歴時ヲ渉リテ、辺境ヲ侵乱シ、百姓ヲ殺略ス。
是ヲ以テ桓武天皇ノ御時ニ、故從三位大伴宿禰弟麻呂等ヲ遣シテ、伐平(コトムケ)シメ給ヒシ。
而ルニ餘燼猶遺リテ、鎮守未息マズ。
又故大納言坂上大宿禰田村麻呂等ヲ遣シテ、伐平シメ給フニ、遠ク閉伊村ヲ極メテ、
略(オオカタ)掃除(ハラヒノゾキ)テシカドモ、
山谷ニ逃隱レテ、盡頭(コゾリ)テ究殄(ホロボス)コト得ズナリニタリ。
茲ニ因リテ正四位上文室朝臣綿麻呂等ヲ遣シテ、其覆傾ノ勢ニ乘リテ、伐平掃治シムルニ、
副将軍等、各同心勠力、忘殉心以テ、不惜身命、勤仕奉〈リ〉、幽(フカ)ク遠ク薄伐(セマリウ)
チ、巣穴ヲ破覆シテ、遂ニ其種族ヲ絶チテ、復一二ノ遺モ無ク、辺戎ヲ解却シ、轉餉ヲモ停廃ツ。
云々」とある。

桓武朝の三次にわたる蝦夷征伐と今回の攻略によって、「三十八年戦争」は終わりを告げ、
朝廷の領土は北上川流域とその東辺に深く拡張された。



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愛犬・りく君

Author:愛犬・りく君
茨城県日立市十王町で
漢方整体院を経営してます。

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