壬申の乱

天智7(668)年正月、中大兄皇子(43歳)は大津宮で即位した。
皇后には異母兄・古人大兄皇子の娘である倭姫王を立てた。
皇后には子がなく、嬪とよばれる中央有力豪族出身の四人のきさき達には女子が多く
生まれ、ただ一人の男子である建皇子は斉明4(658)年に八歳で病死した。
中流以下の豪族出身のきさき(宮人)からは三人の皇子が生まれている。
天智天皇 
しかし中流以下の豪族出身のきさきを母とする皇子が皇位をつぐことは、応神天皇以前の
伝説の時代を除くならば、かつて例がない。
「書記」には天智天皇即位の元年に大海人皇子は「立てて東宮と為す」とある。
天皇に有力な弟がある場合、子供より先に弟に皇位を相続させるのが当時の慣例である。

大海人皇子は、鸕野皇女との間に草壁皇子、太田皇女との間に大津皇子をもうけている。
大海人皇子が皇位につけば、天智系の皇子に皇位がまわって来る可能性はますます薄くなる。

それでも、大友皇子が皇位を託するにたりない凡庸の人物であるならば、天智天皇は
皇位をそのまま大海人皇子に譲ったかも知れない。
しかし大友皇子もひとかどの才能ある人物であったらしい。
この大友皇子が、天智天皇即位の年にすでに21歳である。
天智天皇の意が動かざるのえない。

天智10(671)年正月二日、天智天皇は大友皇子を大政大臣に任命し、同時に
蘇我臣赤兄を左大臣、中臣連金を右大臣、蘇我臣果安巨勢臣人紀臣大人
三人を御史大夫とした。
天智天皇はこの内閣改造によって、かなり露骨に大友皇子を自分の後継者とする意思を
示し、暗に大海人皇子の引退を求めたのである。
やがてはこうした状態の来ることを、大海人皇子は覚悟していただろう。

天智10(671)年8月、天皇は病床につき、九月になっても治らなかった。
10月17日、天智天皇はついに意を決して大海人皇子を病床に招いた。
「わたくしの病気は重い。おまえに後を譲ろう」
意外な兄の言葉に、さすがの大海人皇子も一瞬真意をはかりかねたが、きっぱりと答えた。
「いや、結構です。皇位は倭姫皇后にお譲りください。政治のことは大友皇子に任せるのが
よろしい。わたくしは天皇のおんために出家して修行します」。
うっかり皇位に執着をもつ気配を見せたならば、謀反の心を抱くというような罪名を
きせられて逮捕・処刑されるかも知れぬ、と考えたのである。
有間皇子古人皇子を倒した天智のやり方を身近に見ている大海人皇子が、この切迫した
時期にそう考えるのは当然であろう。

大海人皇子は天智の病床からすぐ内裏の仏殿に行って髪をおろし、僧侶となった。
即日、自家の兵器をことごとく官に納めて天皇に二心のないことを明らかにした。
なか一日おいて19日、わずかの従者を連れて大津京を去り、吉野に向かった。
翌20日に吉野についてやっと一息ついたが、まだ安全とは言えない。
大化改新のむかし、古人大兄皇子は同じように僧侶となって吉野に隠れたが、それでも
天智の疑いを解くことが出来ず、謀反の罪名のもとに攻め滅ぼされた。

しかし近江の朝廷は、吉野の皇子に対して行動を起こすだけの余裕はなかった。
なぜなら、その後も天智の病状が悪化の一途をたどったからである。

天智10(671)年12月3日、厳冬の大津宮で天智(46歳)は永い眠りについた。
大友皇子(25歳)が近江朝廷の新しい主人になり、きさきには十市皇女を立てた。
大友皇子 
672(壬申)年5月、吉野の大海人皇子のもとに衝撃を与える知らせが届いた。
近江朝廷が、天智天皇の山陵を山科に作るために、美濃・尾張の国司に命じて多数の
人夫を徴発し、これに武器を与えているという。
人夫に武器を持たせるとすぐ軍隊ができあがる。
その大部隊に攻撃されたならば、吉野の仮住まいはひとたまりもない。
坐して死を待つか、立って戦うか、大海人皇子は最後の決断を迫られた。

このころ、大伴一門の中心人物である大伴連馬来田・吹負の兄弟は、近江朝廷を去って
大和に帰った。大海人皇子の将来に望みを託したからである。

6月22日、大海人皇子は村国連男依ら美濃出身の舎人三名を挙兵の使者とした。
美濃国安八郡には大海人皇子の直領地である湯沐邑がある。
湯沐令や美濃の国司と連絡を取り兵を集め、美濃と近江を結ぶ不破道を塞ぐことを命じた。

6月24日、大海人皇子は残りの舎人20余人、女官10余人を率いて吉野を立った。
一行は昼夜兼行して、25日の朝はやく伊賀北部の積殖の山口に到着した。
ここで大津宮から駆けつけて来た高市皇子(当時19歳)に出会った。
高市皇子は父からの密使によって挙兵を知り、ひそかに手兵を率いて大津宮を
抜け出したのである。
壬申の乱 
伊勢国に入ると、鈴鹿の辺りで出迎えに駆けつけた三宅連石床や湯沐令らに行き合った。
二日前に出発した男依らは無事に使命をはたし、挙兵の第一段階はまず成功である。
大海人皇子はようやく愁眉を開くことができた。

26日には、やはり大津京から駆けつけた大津皇子(当時11歳)の一行に会い、昼前に
伊勢北部の朝明郡に到着した。
そこへ村国男依が駆けつけて、「予定通りに美濃の兵の動員が進行し、不破の道を占領した」
と報告した。
大海人皇子は使いを東海・東山両道に送って兵を集めるという挙兵計画の第二段階を
実行に移すとともに、高市皇子を不破に遣わして前線指揮官とし、自分は後方にあって
全軍の統轄にあたった。

大海人側の見事は進行ぶりに対し、近江側は行動に敏活を欠き、全てに先手をとらえた。
近江朝廷は大海人皇子の東国入りのことを、24日の夕刻か夜に知ったと思われる。
「書記」には
「近江の朝廷は太皇弟が東国に入ると聞いて、群臣はことごとく驚き、京内は震動した。
東国に遁れようとする者もあれば、山や沢に匿れようとする者もあった」と記している。
こんなことでは適切な対策がとれるはずがない。
「すぐに騎兵を派遣して追撃せよ」という者があったが、採用されず、諸国に募兵の使いを
出し、大兵力が集まったことろで攻撃を始めることになった。
しかし募兵は難航し、吉備や筑紫にまで使者を送ったが、吉備国守当麻公広島も、
筑紫太宰栗隈王も協力せず、当麻広島は使者に殺されるという騒ぎまで起こった。

形勢はこれより大海人皇子の有利に傾いて行くのである。
27日には、尾張国守小子部連鉏鈎が2万の大兵を率いて大海人皇子軍に投じた。

もう一つ近江側に大きな誤算があったのは、大和一国を奪われたことであった。
大伴吹負が大海人皇子の東国入りを知って兵を集め、大和の漢氏一族を連絡を取って、
6月29日に飛鳥京を急襲した。
そして近江側の守備隊を追い払い、更に進んで大和全域を支配下に入れた。
三輪氏鴨氏などの大和の豪族は大伴の軍に味方した。

7月2日、戦備の整った大海人皇子軍はいよいよ攻撃を開始した。
第一軍は紀臣阿閉麻呂らが将となり、大和の大伴吹負と連絡し、南から大津京を目指した。
第二軍は村国男依らが将となり、不破から近江に入り、東から大津京に向かった。
特に第二軍は近江側の兵と区別するために衣の上に赤い布をつけ、旗さしものにも
赤色を用いた。

近江路の戦いは大海人皇子方が一方的に優勢であった。
近江軍は犬上川のほとりの戦いに大敗した上に、内紛まで引き起こし、山部王
蘇我果安などが死んだ。
その後、一時近江軍が盛りかえした時もあったが、息長の横河(7月7日)戦いと
鳥籠山(7月9日)の戦いにも敗れた。
13日、安河のほとりでも近江軍は敗れ、大海人皇子の軍は瀬田川の橋に迫った。

瀬田川の戦い1 

22日、瀬田川の戦いが行われ、近江側は総力を振り絞って戦ったが、善戦むなしく、
この日のうちに大海人皇子軍が守りを突破した。

瀬田川の戦い2 

23日、大津京は陥落した。
「懐風藻」には「時に乱離を経て、悉く灰燼に従う」とある。
大友皇子(25歳)は山前の地にかくれ、みずから頸をくくって死んだ。
「於是、大友皇子、走無所入。乃還隠山前、以自縊焉。時、左右大臣及群臣、皆散亡。」
十市皇女は幼い葛野王を連れて難を逃れた。

挙兵以来満1ヶ月にして戦いは終わった。
大海人皇子は不破の本営において、更に一月を費やして戦後処理した。
右大臣中臣金は死刑、蘇我赤兄巨勢人は流刑、紀大人は赦免された。
蘇我・中臣・巨勢など、当時の有力豪族は近江朝廷とともに没落した。
これより前に、小子部連鉏鉤は山に隠れて自殺したが、真相は不明である。

9月8日、大海人皇子は大和へ向かって凱旋の途についた。
9月12日、大和の飛鳥の古京に帰り、新しく浄御原宮を造って年のうちに移った。

翌673年2月27日、大海人皇子は淨御原宮で即位し、天武天皇となる。
皇后には兄・天智天皇の娘である鵜野讃良皇女(持統天皇)を立てた。

村国連男依:美濃国各務郡の豪族
 壬申の乱で大海人皇子に属し、近江方面の将として功を立てた。
 村国連男依→志我麻呂→島主→

当麻公広島:聖徳太子のにあたると考えられる。
 当麻氏は用明天皇の当麻皇子の子孫にあたる皇族系の氏族である。

山部王:系詳ならず、舒明天皇の皇子・蚊屋皇子の子。



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愛犬・りく君

Author:愛犬・りく君
茨城県日立市十王町で
漢方整体院を経営してます。

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