物部守屋の変

587(用明2)年4月、用明天皇逝去した。
  皇太子には押坂彦人皇子が立っていたが、病弱で、この頃すでに病床にあった。
  物部守屋穴穂部皇子を擁して皇位を争うことを謀った。
  蘇我馬子は穴穂部皇子の同母弟・泊瀬部皇子を担ぎ出した。
587年6月、馬子は炊屋姫に取り入り、詔を出してもらい、穴穂部皇子を殺した。
587年7月、蘇我馬子は群臣と謀り、物部守屋追討軍の派遣を決定した。
  主力軍:蘇我氏を中心とし、諸皇子や紀・巨勢・膳・葛城の諸氏からなる。
  第二軍:大伴・阿倍・平群・坂本・春日の諸氏からなる。
物部合戦図   
物部氏の本拠地は河内国渋川郡であり、守屋の別邸は阿都(八尾市)にあった。
飛鳥時代、摂津・河内方面と大和とを繋ぐ主道路は逢坂越え又は穴虫峠越えてあった。
この主道路は大坂道(大坂越え)と呼ばれ、竹内街道より古い道路である。
難波津と斑鳩里を結ぶ大和川の北辺を通る竜田道は第二国道といったところであった。

奈良県 

主力軍は飛鳥で勢ぞろいをし、奈良盆地南部を西進し、二上山の北の逢坂(香芝市逢坂)
を越えて国分(柏原市国分)から船橋(旧大和川と石川が合流するあたりにあった町、柏原市
から藤井寺市にかけて広がる船橋遺跡)の方へ出るか、穴虫峠(香芝市大字穴虫)を越えて
古市(羽曳野市古市)へ出るかして、待ち構える物部軍に攻めかかった。
戦いの後、餌香川(石川)の川原に斬り殺された死体が数百あったというのは、船橋・古市
辺りに敷かれた守屋側の防衛第一線を馬子主力軍が強行突破した時の戦死者であろう。

第二軍は竜田道を越えて信貴山西麓の志紀郡(八尾市志紀町)の地に出て、横合いから
守屋の本拠に急襲をかけた。
守屋は不意をつかれ渋川の本宅を放棄して北方の衣摺(東大阪市衣摺)まで後退した。

守屋側の奮戦に馬子側もやや攻めあぐねが、やがって主力軍が到着すると、寄せ手の勢力
は倍増し、然しもの守屋もついに乱軍の間に矢に当たって戦死した。
総大将を失った物部軍勢は総崩れとなり四散した。

丁未の乱 

排仏派の物部守屋の没落により、蘇我氏の全盛期が始まる。
翌月(587年8月)、泊瀬部皇子が皇位につき、第32代・崇峻天皇となる。
物部氏の領地は両分され、半分は馬子のものになり、半分は四天王寺へ寄進された。

法興寺飛鳥寺):崇峻1(588)年から建て始められた。

四天王寺:推古天皇元(593)年)に造立が開始された。
 聖徳太子建立七大寺の一つとされる。

大坂道(大坂越え):大和から河内に至る古代の道。
「書紀」の崇神9年3月条に、大和の西の守護神として「大坂神」を祭ったとの記事がある。
香芝市穴虫と北東約600mに位置する逢坂のニヶ所に「大坂山口神社」が鎮座されている。
大坂山口神社 


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愛犬・りく君

Author:愛犬・りく君
茨城県日立市十王町で
漢方整体院を経営してます。

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