蘇我氏略図

武内宿禰 ── 蘇我石川宿禰 ── 満智 ── 韓子 ── 高麗(馬背)── 稲目─

蘇我氏   
    
大和朝廷の政策
①地方豪族の対策:屯倉(ミヤケ)の設置。
②政治組織の改善:氏姓制 ==>官司制。
  ※財政関係の官司は蘇我氏の指導の基に成立した。

天皇家&蘇我氏
①地方勢力や民衆に対しては朝廷の地位を高めるために協力。
②朝廷の内部では天皇専制と豪族連合のどちらを優先させるかで厳しく対立。
③大臣蘇我氏と並ぶ朝廷の一方の雄は大連物部氏であった。
  ※物部氏─天皇直属の特高警察。

蘇我入鹿
少年の頃、他の貴族の子弟達と共に僧・旻のもとに通って「周易」の講義を聞いたが、
旻は中臣連鎌足に「私の家に来る者の内、あなたを除くと曽我の太郎以上の者はない」
と語ったという。
僧・は推古16年(608年)第三回遣隋使小野妹子に従って、高向玄理南淵請安
薬師恵日恵隠らと共に隋へ渡り、24年の留学を終えて、舒明天皇4年(632年)に
第一回遣唐使らと共に日本に帰国。
のち大化元年(645年)大化の改新にあたり、高向玄理と共に国博士に任ぜられる。

薬師恵日は推古天皇31年(623年)に、恵隠は舒明天皇11(639年)年に帰国、
高向玄理と南淵請安は、舒明天皇12(640年)年に帰国した。
中大兄皇子中臣連鎌子は請安の儒学塾に通う道すがら蘇我氏打倒の密談をこらした
と伝えられる。時に、中大兄皇子は19歳、中臣鎌子は31歳であったという。
第一回遣唐使は舒明2(630)年に派遣され、犬上御御田鍬、薬師恵日とが選ばれた。
犬上御御田鍬:推古22年(614年)に最終となる第5回遣隋使として隋に渡り、翌年に帰国。

入鹿はその優れた才と家柄を頼んで傲慢・勝ち気で自尊心が強く、人に譲るという協調の
心掛けなどは持ち合わせ無かったと思われる。彼には豪族連合の体制を維持し、合議制の
上に地位を築いた馬子・蝦夷の苦心はわからなかった。

皇極天皇2年(643年)10月、蝦夷は病気を理由に、勝手に大臣を地位を入鹿に与えた。
これは本来なら天皇の行うべきことであるが、皇極天皇はこの授位を黙認した。

皇極天皇2年(643年)11月、大臣になった入鹿は古人大兄皇子を太子にするために
有力な対立候補の山背大兄王を倒すことが必要だと判断し、巨勢臣徳太・土師娑婆連らを
斑鳩に差し向けて山背大兄王の宮を襲撃させた。
王は妃や子弟や若干の側近を引き連れて生駒山に逃れたが、のちに斑鳩寺に戻って
妃や王子と共に自殺し、上宮王家はここに滅んだ。

聖徳太子は【捨身の思想】の信奉者であり、山背大兄王はその思想の実践者である。
法隆寺の国宝:玉虫厨子=【捨身飼虎】 【施身聞偈】。
法隆寺(斑鳩寺):太子とその一族の鎮魂の寺である。

斑鳩宮攻撃に向かった寄せ手の中に皇極天皇の弟・軽皇子(孝徳天皇)が加わっている。
皇極天皇も中大兄皇子も入鹿の行動を密に是認し、上宮王家の没落を見過ごしていた。

入鹿は古人大兄皇子太子の工作を進め、ほとんど実現するところまでこぎつけた。
しかしその地位を不動のものにするには中大兄皇子が邪魔である。
入鹿が次に打って来る手はほぼ想像出来る。

この形勢に目をつけて、蘇我氏打倒の意志を固めた中臣連鎌子中大兄皇子を頼んで
事をあげようと決意した。
また、族長の地位を馬子の直系だけで独占的に相続したことに対する分家筋の反感に
乗じて、蘇我倉山田石川麻呂を味方に引き入れた。

皇極天皇4年(645年)6月12日、入鹿は飛鳥板蓋宮で、中大兄皇子らに暗殺された。
翌日、父・蝦夷も自害し、蘇我本宗家はここに滅んだ。

事件後、古人大兄皇子は皇極天皇退位を受けて皇位に即く事を勧められたがそれを断り、
法興寺で髪をおろし、僧形となって吉野山に入った。
しかし同年9月12日、謀反の疑いをかけられ、中大兄皇子が攻め殺させた。

蝦夷が自殺した翌日(14日)、軽皇子(50歳)が即位し、第36代・孝徳天皇となった。
間人皇女を皇后にし、中大兄皇子を皇太子にした。
従来の大臣・大連を廃し、皇太子の下位に左右大臣を置いた。
推古朝までは聖徳太子のように、皇太子は大臣又は大連と並んで政治を執った。
左大臣に安倍臣倉橋麻呂(内麻呂)、右大臣に蘇我倉山田石川麻呂が任命された。
安倍氏は蘇我の本家が滅んだ後朝廷の上級貴族・官僚層を代表するのに
最も適した氏族であった。
中臣連鎌子は内臣に任じられ、軍事指揮権を握った。

倉山田石川麻呂:日本初の右大臣(孝徳朝・中大兄皇子)。
 大化5年(649年)3月25日、謀反の疑いをかけられ、長男の興志ら妻子八人と共に
 山田寺(石川麻呂の氏寺)で自害した。
 なお、この事件は中大兄皇子と中臣鎌足の陰謀であったとされている。
 大化5年(649年)3月17日、左大臣倉梯麻呂が亡くなった。
 中大兄皇子が皇太子として専制権力をふるおうとすると石川麻呂が邪魔になる。
 蘇我遠智娘は父石川麻呂の死を聞いて悲嘆にくれ、傷心のすえ病没した。
 改新の功労者の死によって、天皇・皇太子の専制的地位が確立された。
 4月20日、巨勢臣徳太(徳陀古)が左大臣、大伴連長徳が右大臣に任命された。

蘇我赤兄:中大兄皇子の側近、謀略で孝徳天皇の皇子・有間皇子を謀反させ陥れた。
 天智天皇10年(671年)、左大臣任命されるが、壬申の乱で流罪となる。
蘇我氏略図-2 
  
古代飛鳥の地は奈良盆地南東端、藤原の都の地を含む飛鳥川の上流域にあたる。
飛鳥板蓋宮  

飛鳥寺法興寺):蘇我氏の氏寺、開基(創立者)は蘇我馬子
 崇峻元年(588年)から建て始められ、完成は推古天皇17(609)年だという。

山田寺浄土寺):石川麻呂の氏寺、開基(創立者)は蘇我倉山田石川麻呂
 舒明13年(641年)に建て始められ、石川麻呂の自害(649年)の後に完成。

岡寺龍蓋寺):草壁皇子の住んだ岡宮の跡に義淵僧正が創建したとされる。
 草壁皇子:天武天皇の第二皇子で、持統3(689)年に28歳で早世。

坂田寺:渡来人鞍作(くらつくり)氏の氏寺で、日本最初の尼寺。
 継体16年、司馬(鞍作)達等が大唐神を安置したことに発するという。

定林寺:聖徳太子建立46寺の一つとされる。

橘寺:聖徳太子建立七大寺の一つとされる。

川原寺:天智9(670)年頃に建立されたとされる。
 飛鳥寺、薬師寺、大官大寺と並ぶ「飛鳥の四大寺」の1つ。

大官大寺:南都七大寺の1つで、平城京の大安寺の旧称の一。
 熊凝精舎→百済大寺(舒明天皇)→高市大寺(天武2年)→大官大寺(天武6年)。
 奈良時代から平安時代前半は東大寺、興福寺と並ぶ大寺であった。 

飛鳥朝廷を構成する貴族たちの本拠地
大和の豪族-2 
蘇我氏:飛鳥の西北方の曽我。
安倍氏:飛鳥の東北方の安倍。
大伴氏:鳥見(三輪山の南方)の辺りと畝傍山の麓。
巨勢氏:飛鳥の西南方の巨勢。
物部氏:河内国の渋河。

大神神社:式内社(名神大社)、大和国一宮、二十二社(中七社)。
 ご神体「三輪山」は、大物主大神が鎮しずまる神の山として信仰されている。
 三輪の先住民の王・大物主が、大和朝廷に国譲りをした後、出雲に祀られた。


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あれ?この植物もしかして

朝の散歩中,りく君が偶然見つけました。この植物,もしかして「あれ」?
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まさかと思いますが,よく似てます。
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よくもこんな所に根をおろしましたね~。
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りく君はあまり興味がないみたいです~  H25 5 14-4

それにしても,植物の力は凄いですね~,よく見たら,間違いなく「あれ」です。
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このままでは,道路清掃の時に雑草として除去されてしまいそう~,可哀想に。
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漢方医学では収澀薬として使われます。


日立市川尻町-漢方整体院

移転のお知らせ

この度,漢方整体院は日立市十王町から川尻町に移転致しました。
      地図    
正面   待合室 待合室 診察室 施術室

今後とも皆様に満足頂ける治療サービスを提供できるよう努力してまいります。
   

日立市川尻町-漢方整体院     
   

第13回:白門楼 下

妻を恋して陳宮の諌めを納れず 白門楼に呂布命を殞す


徐州周辺の地図
三国志地図-13 

人中の呂布 馬中の赤兔
張光北先生-3 張光北先生-4
呂布の妻・厳氏を演じた高宝宝さん&娘を演じた劉岩さん
高宝宝&劉岩 



三国志リスト    日立市十王町-漢方整体院


プロフィール

愛犬・りく君

Author:愛犬・りく君
茨城県日立市十王町で
漢方整体院を経営してます。

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